古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

金井美恵子

金井美恵子(かない・みえこ) 1947年11月3日〜

小説家。群馬県高崎市生まれ。[著名な人物につき、プロフィールのうち古賀春江と関係の無い部分を省略致しました。お知りになりたい方は各種人物事典を御参照下さい。]小説『あかるい部屋のなかで』(福武書店、1986年)で古賀春江《海》について「鈍重で無感覚で、なかなか射精できないでかすぎる男根みたいな飛行船というしろものは、古賀春江の古めかしいうえに貧乏くさく、シュルレアリスムというより田舎の未来派とでも言うべき絵を思い出させて、空に浮かんでいるのを見ると苛々する。」と手厳しく批評している(註1)。


(註1)金井美恵子『あかるい部屋のなかで』(福武書店、1986年)p.37
  1. 2017/09/15(金) 14:28:12|
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品川工

品川工(しながわ・たくみ) 1908年6月11日〜2009年5月31日

版画家。新潟県柏崎市出身。本名は関野工。東京府立工芸学校金属科(現・都立工芸高校)に進み、1928年に卒業。彫金家・宇野先眠に師事。しかし、型にはまった彫金の仕事への関心が薄れたため、宇野のもとを去り、兄の品川力とともに東京帝国大学の近くでペリカンという喫茶店を開く(のちのペリカン書房)。そこで、当時、帝大生だった立原道造、織田作之助、串田孫一、岡本謙次郎、三輪福松、北川桃雄、宇佐見英治らと出会う。彼らに翻訳してもらったモホイ・ナジの著作に感銘を受け、また、ペリカンの賓客だった晩年の古賀春江の知己を得るなどして、「本当に芸術に目醒めた」という。この頃、紙彫刻、板金、オブジェなど様々な作品を制作していたが、1935年に版画家・恩地孝四郎に師事したことをきっかけに、本格的に版画制作を始める。1937年に徴用されて株式会社光村原色版印刷所で軍の作戦地図などを作成するかたわら、作品制作を精力的に行う。終戦直前に農商省工芸指導所の玩具研究室長となるが、終戦後に退所し独立。1947年、日本版画協会会員。1949年、国画会会員。1954年、ルガノ国際版画ビエンナーレ、サンパウロビエンナーレ、英国国際版画展などの国際展に出品。版画のほかスプーンなど身近な材料を使ってのモビール、立体など多彩な創作活動を続け、常に実験的な新しい造形に挑んだ。
  1. 2015/10/31(土) 12:09:05|
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松田諦晶

松田諦晶(まつだ・ていしょう) 1886年10月14日〜1961年12月8日

洋画家。筑後洋画壇の中心人物。現在の福岡県久留米市京町に生まれる。本名・実。父親は旧久留米藩士。幼時を浮羽郡で過ごした後、1899年、久留米に戻り、久留米高等小学校を経て久留米商業学校に入学。1904年、同校を卒業。高等小学校時代に筑後洋画壇の祖・森三美から洋画の手ほどきを受け、後には郷土の先輩、坂本繁二郎や青木繁らに批評を受けたりしているが、正式に誰かに師事するということはなく、殆ど独学で洋画の研究を行う。このような洋画の修業の後、明治末年から大正前半にかけて太平洋画会展や二科展に入選し、二科展では二科賞の候補になったこともあるが、1921年の第8回二科展に《静物》が入選したのを最後に中央画壇を離れ、作品の発表の場を専ら「来目洋画会展」に求めるようになる。久留米においての松田は、1913年に同志と共に「来目洋画会」(後に「来目会」と改称)を結成し、その中心人物として展覧会の開催や同人の写生会などに努め、多くの後輩を指導し、久留米の洋画の振興に大きな役割を果たした。また、1931年には自ら画塾「久留米洋画研究所」(1954年に「来目洋画道場」と改称)を開設し多くの弟子を育てた。没後の1963年に遺作展が開催される(井筒屋)。また、1985年に大規模な回顧展が石橋美術館で開催される。評伝に吉田浩『櫨の国の画家たち―松田諦晶物語』(西日本新聞社、1980年)がある。主な弟子に古賀春江、藤田吉香らがいる。古賀は中学明善校時代に洋画の指導を受けて以来、生涯にわたり松田に師事する。その関係は先輩、後輩の間柄を超えた無二の親友といった関係に近かったといわれ、石橋美術館には古賀から松田に宛てた30数点に及ぶ書簡が残っている。松田の絵は初期には青木、青木亡き後は坂本の影響が見られ、また、古賀が写実的な絵を描いていた頃(大正中期〜後期)の作風とも似ているため、松田の絵が前記3人の偽作として流通することもしばしばあった。ただし、松田は几帳面な性格で、生涯のほぼ全作品を写真に撮り、29冊のアルバム(現在、石橋美術館に保管)に整理して残しているので、これを参照すればそれらの作品の真贋は判別できる。現にこのアルバムを参照してそれまで古賀作とされていた作品が松田作に訂正された例が幾つかある。また、松田の几帳面な性格はアルバム以外にも及び、スケッチブック(80冊)や日誌(36冊)、手帳(24冊)、大量の書簡、新聞の切り抜きなど、一生涯に及ぶ膨大な資料を残しており、筑後画壇の動向を知る上で欠かすことのできない資料となっている。これらの資料は松田の死後、実弟・茂介が保管していたが、1978年、西日本新聞に連載された『櫨の国の画家たち 松田諦晶物語』(吉田浩記者)を契機に吉田の仲介により石橋美術館への寄託の話が持ち上がり、翌1979年、茂介より石橋美術館に永久寄託された。


参考文献:
吉田浩『櫨の国の画家たち―松田諦晶物語』(西日本新聞社、1980年)
図録『生誕百年記念 松田諦晶展』(石橋美術館、1985年)
図録『青木繁・坂本繁二郎生誕120年記念 筑後洋画の系譜』(石橋美術館、2002年)
  1. 2014/07/10(木) 23:00:00|
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佐野年一

佐野年一

童話作家。中学明善校で古賀春江と同級で、共に松田諦晶に絵を教わった。1913年、上京。古賀と同じ法正寺に寄寓。1920年、古賀と好江夫人の結婚式の際、媒酌人を務める。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註1)。


(註1) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187

参考文献:
佐野年一「古賀春江の思出」 『筑後』5巻6号(1937年6月)pp.10-15
  1. 2014/07/08(火) 16:00:00|
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岡田隆彦

岡田隆彦(おかだ・たかひこ) 1939年9月4日〜1997年2月26日

詩人、美術評論家。東京都出身。1963年、慶應義塾大学文学部仏文科卒。慶大在学中に、吉増剛造、井上輝夫らと詩誌『ドラムカン』を創刊。詩集『われらのちから19』(思潮社、1963年)、『史乃命』(新芸術社、1964年)などの新鮮な抒情と都会的感性によって60年代を代表する詩人のひとりと目された。1965年、評論「はんらんするタマシイの邦」で芸術評論賞受賞。1985年、詩集『時に岸なし』(思潮社、1985年)によって高見順賞を受賞。東京造形大学教授を経て1990年、慶應義塾大学環境情報学部教授。『三田文学』編集長も務めた。同時に美術評論にも筆を染め、20世紀の美術に深い理解を示し、『危機の結晶 現代美術覚え書』(イザラ書房、1970年)、『夢を耕す 幻想絵画論』(小沢書店、1981年)、『かたちの発見 時空間を超えて』(小沢書店、1981年)などを刊行。のちにウィリアム・ブレイクに強く惹かれ、芸術と生活の一致をめざす思想をウィリアム・モリスなどに見出して研究。1997年2月26日、下咽頭ガンのため、埼玉県富士見市の三浦病院で死去。『日本の世紀末』(小沢書店、1976年)所収「耽美主義的幻想」で古賀春江と三岸好太郎について考察している。


参考文献:
「岡田隆彦」(文責:井上輝夫) 『現代日本朝日人物事典』(朝日新聞社、1990年)p.363
「耽美主義的幻想」 岡田隆彦『日本の世紀末』(小沢書店、1976年)pp.197-212

参考ウェブ資料:
「物故者記事 岡田隆彦」(東京文化財研究所) http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/10721.html 2014年6月6日閲覧
  1. 2014/06/07(土) 10:00:00|
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佐藤信弘

佐藤信弘(さとう・のぶひろ) 1936年9月23日〜

歌人。東京都豊島区生まれ。実家は真言宗寺院。1956年、学習院大学経済学部入学。1959年、加藤克巳の主宰する『近代』に入会。1960年、伊勢丹百貨店に入社し、定年となる1996年まで勤め上げる。1963年、加藤が『近代』を終刊して新たに『個性』を創刊し、佐藤も属する。1993年、沖ななもと『詞法』を創刊。1998年、脳梗塞で倒れ、闘病生活に入る。2004年、『個性』が終刊する。同時に沖が『詞法』を改名して『熾』を創刊し、佐藤も属する。作風は超難解で、「実験的前衛モダニズム短歌とでもいうべき孤高の姿をしている」(註1)、「秀でた抽象/観念の刺激的な短歌」(註2)と評されている。歌集に『具体 佐藤信弘作品集』(短歌新聞社、1968年)、『海胆と星雲』(短歌新聞社、1973年)、『制多迦童子の収穫』(青和工房、1974年)、『こけらぶきのけしき 佐藤信弘作品集』(風心社、1988年)、『昼煙火 古賀春江の景』(短歌新聞社、1993年)などがある。また、その他の著書に『加藤克巳の世界』(潮汐社、1976年)などがある。中村幸一『佐藤信弘秀歌評唱』(北冬舎、2013年)に詳しい。古賀春江の作品に触発されて『昼煙火 古賀春江の景』を発表した(註3)。また、1986年頃、『春江浄土遠景』というワープロで5部程の私家版の古賀春江論を書いている(註4)。


(註1) 江田浩司「『佐藤信弘秀歌評唱』と『菱川善夫歌集』」(万来舎 短歌の庫) http://www.banraisha.co.jp/humi/eda/eda192.html 2014年3月12日閲覧
(註2)(註3) 「ニュースⅡ☆2013 2013年6月9日(日)曇」(北冬舎) http://hokutousya.jimdo.com/ニュースⅡ-2013/ 2014年3月12日閲覧
(註4) 中野嘉一『病跡学ノート―芸術家の心の風景』(宝文館出版、1998年)p.141-142

参考文献:
中村幸一『佐藤信弘秀歌評唱』(北冬舎、2013年)
  1. 2014/03/14(金) 21:00:00|
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尾川多計

尾川多計(おかわ・たけい) 1906年〜1945年10月12日

美術評論家。東京生まれ。川端画学校洋画部に学び、美術雑誌『アルト』『中央美術』や三省堂の広報誌『エコー』等の編集をした後、毎日新聞社に入り、文化部嘱託として美術評論を担当。1939年12月、「大月源二作品頒布会」の賛助員に名を連ねる(註1)。同年、『福井謙三画集』(造形文化協会、1939年)を編纂。1940年12月、「美術問題研究会」の発起人に名を連ねる(註2)。1945年10月12日、交通事故のため逝去。没後、尾川可住『途上にて 尾川多計美術評論遺稿集』(私家版、1991年)が編纂された。古賀春江のシュルレアリスム風絵画については手厳しい評価をしており、「二科の九号室―現実遊離主義の諸作品―」(『アトリヱ』8巻10号、1931年10月)で「先づ古賀氏の「現実線を切る主智的表情」をとつて見る。これは「感傷の生理に就いて」と共に古賀氏の力作(?)らしいが、画面は、鋼鉄製のロボツトが馬に乗つて障碍物を越さうとする所を、断髪に乗馬服のモガが、モーゼルの軽機関銃を構へて今正に打たうとしてゐる処である。思ふに古賀氏は、そのジヤーナリステイツクな神経を以て、エロテイシズムとメカニズムとそれに映画的な要素さへあれば最も尖端的な作品が出来ると考へたらしい。この事は「感傷の生理に就いて」に於ても言はれ得るが、彼のその意図は、彼が前述の三要素を正しく理解してゐない事によつて明かな失敗に終つてゐる。」「要するにこれは、今までの芸術至上主義的作品から次第に離れて行く一般観衆を、唯単なる題材及び画題への好奇心のみで引留めようとする悲しき努力の表れに過ぎないのであつて、而も之は古賀氏一人の作品のみではなく、この室全体に亘つての傾向である。」と述べている(註3)。


(註1) 鶴見太郎「旧無産芸術運動家による戦時下絵画頒布会」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第4分冊』49巻 pp.3-13、2003年) http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/8590/1/81044_49.pdf 2014年2月27日閲覧
(註2) 「AICA JAPAN Background 美術評論家連盟結成経緯」(AICA JAPAN 国際美術評論家連盟日本支部) http://www.aicajapan.com/about/background.htm 2014年2月27日閲覧
(註3) 尾川多計「二科の九号室―現実遊離主義の諸作品―」 『アトリヱ』8巻10号(1931年10月)

参考ウェブ資料:
「尾川多計―『日本美術年鑑』(当研究所刊行)所載物故記事 1945年」(東京文化財研究所) http://www.tobunken.go.jp/japanese/bukko/1945.html 2014年2月27日閲覧
  1. 2014/02/28(金) 21:00:00|
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志保谷達郎

志保谷達郎 生没年未詳

美術評論家。1920年代末頃から1930年代初頭にかけて美術雑誌『美之國』に展覧会評を書いていたことが確認されているがそれ以外のことは不明。古賀春江に対しては手厳しい評価を下しており、「二科展洋画評」(『美之國』4巻10号、1928年10月)には「古賀春江氏「蝸牛のゐる田舎」「山の手風景」は綺麗な継ぎ交ぜの程度で感じが甚だ浅い。パウル・クレーの様に幼い眼で分析する様な明晰な意図は表れてゐない。」と(註1)、「二科展評」(『美之國』5巻10号、1929年10月)には「古賀春江「海」など。氏の作には何等進歩の跡を認め得ない。作意を難ずるでない。出来栄えが少しも好くないのだ。是では独逸あたりの後表現派の末輩にも及ばぬと言はねばならぬ。」と書いている(註2)。


(註1) 志保谷達郎「二科展洋画評」 『美之國』4巻10号(1928年10月)
(註2) 志保谷達郎「二科展評」 『美之國』5巻10号(1929年10月)
  1. 2014/02/26(水) 22:00:00|
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荒城季夫

荒城季夫(あらき・すえお) 1894年1月10日〜?

美術評論家。東京都生まれ。1917年、早大英文学科卒。1925年に日仏芸術社に勤め、後に『日仏芸術』編集主任。1930年、日本美術学校教授、のち理事長。美術評論家として活躍。美術批評に科学的方法論の必要性を唱えた点で、その近代性が評価される半面、芸術の社会的な統制を安易に容認し、戦時下の美術統制を受け入れる弱点を有していたと批判される。とくに陸軍省情報部員と行った雑誌『みづゑ』(1941年1月)誌上の座談会「国防国家と美術」は、戦時下の美術統制に関する資料として歴史的に重要である。著書に『近代フランス絵画思潮論』(綜合美術研究所、1936年)、『古代美と近代美』(青磁社、1943年)などがある。1929年から1933年にかけて、美術雑誌で古賀春江の二科展出品作を評し、「二科に於ける近代性」(『みづゑ』296号、1929年10月)では「「海」や「鳥籠」に描かれたやうに機械美に対する人間の感情を暗示したところは、少しく説明に過ぎて響いてくるものが少いけれども、他の三作は此の人本来の純情を盛つたもので、微笑ましい限りである。中でも「素朴な月夜」は童話味たつぷりな美くしい抒情詩である。」と述べ、シュルレアリスム風の作品よりもクレー風の作品を高く評価している(註1)。


(註1) 荒城季夫「二科に於ける近代性」 『みづゑ』296号(1929年10月)pp.4-7

参考文献:
「荒城季夫」(文責:岡部幹彦) 『現代日本朝日人物事典』(朝日新聞社、1990年)p.82
  1. 2014/02/26(水) 19:00:00|
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寺田操

寺田操(てらだ・そう) 1948年〜

詩人、文芸評論家。兵庫県神戸市生まれ。1987~2008年、『而して』『エピュイ』『関西文学』の編集に携わる。現在、個人誌『POETRY EDGING』を発行する。詩集に『華骸 寺田操詩集』(あんかるわ叢書刊行会、1981年)、『みずごよみ(水暦) 寺田操詩集』(白地社、1986年)、『モアイ』(風琳堂、1992年)などがある。また、文芸評論家としては1920・30年代のモダニズム系女流文学者を主な評論対象とし、『金子みすゞと尾崎翠 一九二〇・三〇年代の詩人たち』(白地社、2000年)、『都市文学と少女たち 尾崎翠・金子みすゞ・林芙美子を歩く』(白地社、2004年)、『尾崎翠と野溝七生子 二十一世紀を先取りした女性たち』(白地社、2011年)などの著書がある。また、活動の初期には女性史研究家・高群逸枝の研究に力を入れ、『対なるエロス・高群逸枝 『恋愛論』『恋愛創生』への試み』(砂子屋書房、1983年)がある。『金子みすゞと尾崎翠 一九二〇・三〇年代の詩人たち』所収の「アヴァンギャルドな詩人たち/古賀春江 空虚の距離」で古賀春江について論じている。
  1. 2013/12/19(木) 05:00:00|
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