古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

新傾向絵画と二科

 二科会も今年で愈々二十年の記念展を催すこととなつた。
 そも/\其時代の洋画会は〔#「会」に「ママ」の注記〕官展としての文展として、所謂古典主義を中心として時代の進展と共に発展することが出来なかつた。時代は日進月歩の勢で新しい文化社会として美術のみはその歩みに伴なはず二十年依然として足を止めてゐた。新しい美術と二科会、さう言ふ言葉は、現在に於て普通の常識語となつて終つた。全日本の洋画の新鋭を代表としてその第一回の展覧会を三越の五階に開いたがその次回には上野の竹の台の仮会場に移つた。
 当時会の創立者として会員は石井柏亭氏、梅原龍三郎氏、柳敬助氏、田辺至氏、津田青楓氏、山下新太郎氏、坂本繁二郎氏、小杉未醒氏、有島生馬氏、斎藤豊作氏、湯浅一郎氏の諸氏であつた。其後二十年経過現在その会員に幾多の変遷を見た。
 その頃の作品も現代のものに比較すると大分に違ひがあるが、硲伊之助氏はその第一回に於て素晴しい「裸体」の大作を示した。東郷青児氏は今日迄その有名な勢力を持続してゐるがその時代に既に「未来派」といふ全く新しい作品を発表してゐる。その時の作品の題名は「パラソルをさせる女」だつたと思ふ。
 その後会毎に〔#「会」の横に「回」〕二科は新しい芸術のため社会に偉大なる功績を示したが、この頃の会の過程に就いては石井柏亭〔氏〕の詳細なる論述があると思ふ。中川紀元氏はフランス〔から〕帰朝後マチス流の力強いフオーブの作法で人物、静物、風景あらゆる素材のものを表現して観者の眼を驚かした。その他外国の作家からも種々な作品を出品されたが全く当時の社会に於ける最前線に在つたものだつた。
 最近に超現実派と言はれるものが現はれたが一般社会からは僅かな反響を得たのみで未だ進展の途中にあるものと言へる。
 一体に日本での洋画の傾向は所謂写実主義と言はれるもので、その作品は対象を視覚で得たまゝで、その客観的美を目的として表現されたのであつた。
 それは如何にも美しい作品であつた。人物も、風景も、静物も各種の題材を取つて描かれたものであつた。それはどんな観者にも快感を与へてゐたが、それが時代の趣向と一般の観察者の観賞力とが進歩したに反してそのまゝに繰返されてゐた為め其魅力を失ひ掛けて行つた。
 例へば一般の今日の美の観賞を例にとつて言へば、今まで美しいと言はれてゐたが、今日では案外それが美しいと見えなくなつて行つた。昨日の美で今日の美でなくなつた。山の美、川の美としてもその通りである。日光、富士山、松島、厳島等といふ随分名所として賞され、景色は何時の間にか見返られなくなつて段々に見落されて行つた。それよりも今の社会の美観は何時も、直線の美、曲線の美といふことになつて例へば隅田川の七橋等賞されることになつた。
 これは一般社会の状況を見れば一目瞭然である。
 児童の趣味などに就いても、それは判る。昔は人力車や、馬車や富士山や桃が美しく見られて居たが、今の児童達はそんなものは見やうともせぬ。汽車、電車、自動車といふと夢中になる。
 これは一般社会の文化の発展、文化的施設の発展の反映と見て差し支へないと思ふ。
 一般の科学、機械、薬品、街路の通路、家屋の形、色彩、日常の使役品や玩具、総てことごとくが科学的なものであり機械的なものである。
 そこで、美術の方は如何なつたかと言ふと現実的作品の変遷も科学的現実主義が出来て既に以前の、アンドレ・ブルトン等の主張した時代のものから現在の科学主義超現実主義に移行したものである。
 ブルトン等はその始め、フロイドの精神科学などに基礎を置いてゐた者もあつたがそれは現代になつて全然否定されてゐる。超現実主義とは今になつても依然夢の芸術の如く理解されてゐることが多いけれど実はそんなロマーンチシズム的な現在ではないのである。
 今日までの作品の現実の芸術的価値、それが単に一作品としてたゞ美しいとして美術品としての存在価値を持つてゐた。美しいと言ふだけでは、芸術とは言はれない。美術品は現実の物質存在としての価値を持つた芸術品とは言はれない。芸術の本質それはとりもなほさず精神的美術存在でないが、これは哲学的に言つても唯心的と唯物の二つに別れるのである。
 ヘーゲルの唯心弁証法から、マルクス、エンゲルス等の唯物弁証法との見解の相違。
 認識論でも矢張りこの二つの論があるやうであるが、マルクスはヘーゲル等の唯心的弁証法を認めない。所謂物体の存在が精神を支配するものだと言ふのである。
 また唯心論では唯物弁証法を認識論として認めない。認識物といふのは具体の認識であつてそれは所謂写生主義であるから観念として認識を認められないと言ふ。
 すると、もう一方では両方認められない、それよりも現象世界そのものをもつと研究すべきである。フツサン等がその説を力説した現象主義であつて現象の問題に一歩進んだのである。
 大体「在る」といふ問題が仲々むづかしく解決が困難である。「有」と「無」の問題、これは昔から永い間の未解決の問題らしいけれど矢張り今でもとうてい解決出来ぬ! ノエマとノリシーズの問題。
 美術界に於てもそれは大問題にされねばならない。写実主義を単に模写主義とせる説、観念主義を唱へる者。
 単に美なる作品の否定、それは感覚的認識的で芸術的認識と表現にまで行かなければならない。文学に於ても同じで「悲嘆、驚嘆、喜悦、満悦、不満、悲観」等とそのまゝに情的に美術的に文学で現はすだけでは文学とは言へない。文字の羅列である。
 あゝ、痛いと叫んだとて文学とは言はれない。それは犬の叫が「ワン」と言ふ声と現実の上で単に「在る」と言ふことである。
 これはどうしても文学上の所謂「ポエジイ」とは言はれない。
 美術作品も単に観て美しいのでは芸術品では無い。
 所で現代の日本の洋画展は何所で見ても矢張り、写実主義といふのが多い様である、裸体の婦人が立つて居て側に椅子があり、テーブルがあつて果物に布とがある。それがそれだけの姿をして描いてある隣りの画は美しい山があつて野が近くまで拡つてゐて、小川がその中を流れてる、雲が浮いてゐる。
 一方には大勢の労働者が集つて、ボロのかたまりのやうに醜く出来てゐる。
 赤ん坊を抱いて土間で傾いた板間でお乳をやつてる母親の風景、とても美しいと見られるものでは無い作品が沢山並んでゐるが、一体美術の殿堂と言はれるものはあんなものであらうか、こまつた殿堂である。これでは現実主義であらぬ誰でも逃げる。
 今の日本では仲々作家らしい者さえ少ないが今後の画壇では追々にそれ等の新しい分子が出現して来ると思ふ。
 二科会は前にも言つたやうにその時代の新しい新進を推薦することに依つて最も社会の親任を〔#「親」の横に「信」〕得、それ等凡ての新しい尖鋭として意義ある伝統を作つた。この二科会の中から、その意義ある意義を生かして現れて来るものが必ず生れると信じる。
 二科の万歳を祝して擱筆する。   七月二十九日



初出:『アトリヱ』10巻9号(1933年9月)pp.40-42
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.49-53
  1. 2016/02/06(土) 08:28:47|
  2. 評論・随筆等
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水絵の職能とその限界に就いて

 生命力は限りもなく自らの生長を希求し、我々の創造力を刺戟して表現へと駆り立てる。画家は何に縁つてこの自らの表現慾を満す可きか、其の手段として使用される可き材料に就いても文字通りの自由を持つだけ、それだけ我々はその撰択に考慮を要する。完全なる表現は、内なる我等の慾求と、外なる材料と手法との過不及なき渾一融合に俣たなければならないからである。
 我々の表現上に於ける水絵は、実に愛さる可き好き材料の一部面である。
 茲に手法と材料上により観たる水絵の職能に就いて考へるに、創作過程に於ける凡そ二つの段階を占めるかの如く思惟されるのである。
 我等の表現慾が余りに突発的に急拠にして再考練習す可き時間の余裕を容さず、その材料を択ぶ可き場合、即ち瞬間的感興が一時に慂出する場合が一である。それは実に屢々我等の日常経験する所であつて、斯くの如き場合に於てはその単的にして〔#「単」の横に「端」〕要約されたる表現に最適なる水絵は実に好箇の技法である。
 又他の場合に於ては充分に練達されたる技術の上に於て、嘗て修得したる感じの表現をその特性に応じて為されるもの二である。この場合に於ては技巧上に永き修練の経験を要するもので、それの一集大成と見做されるものである。
 この外に猶ほ或る制作の下絵として予め試作される場合もある如く思ふがそれは茲で第一の場合に入れる。
 前者に於ては感興表現慾が主となり、その余りに瞬時的沸騰なる為めに──或は斯くの如き必要の為めに──その最も単的なる〔#「単」の横に「端」〕材料を択んだので、結果に於て軽妙洒脱なる即写画を成すものであり、後者に於ては永き修練より得たる体験の累積に依つて予めその結果を予定して為されたる完成品である。
 両者ともに清朗なる一味の気稟と流麗なる柔か味とは、他の幾多の材料より区別さる可き水絵の特質であり、又その深狭にして雋鋭なる表現はこの一般的特性と云ふ可きである。
 即ち、表現上より観たる水絵の位置は、主としてこの二つの階程に立つものであつて、その中程に於ける表現、例へば、永き時間と労力とを要する堪念なる〔#「堪」の横に「丹」〕制作の如きには不適当と見られるものである。嘗ては、水絵を以て油絵の如く濃厚に微細になどの論もあつたやうに思ふが、それ等は凡そ水絵の本質を思はざる、または誤認したる説と見るべきで、材料の相違は必然に効果の相違を想ふ可きである。一つの制作に、対象の中に没入して永き時間を費し、追及の上に追及して顔料を重厚に重ねる事は、水絵本来の繊細優美なる流動性を殺し、凡ての芸術に必須欠ぐ可からざる生新の気を刹ぎ〔#「刹」の横に「殺」〕、而して単的なる〔#「単」の横に「端」〕表現の持つ矜りである所の積極性を鈍らす。
 我々の今日の生活は複雑多端、表現の材料方法も亦無限豊富を有つものであるが、自由であると共に一面又苦難に満ちた現在に於て、或る朗らかな感懐も限りなく懐かしきものであるが如く、重厚なる材料の間に淡淡たる水絵も必要以上に望ましきものである。
 然し、総じて或るものゝ特性は、又一面自らそのものゝ限界をなすものである。水絵に於けるそれもやがてはそれ自身水絵の境域を画する境界線である。
 故に今日の如き我々の日常生活に於て、或る限られたる境域内に自らを繫縛する事は、この多角的感情の奔溢を遮蔽し、自由なる生命力の進展を阻止し、腐水の如く萎微沈滞せしむる因となるのである。これは真に自己自らを殺すことでなくて何であらう。
 現在我々凡ての覊絆より解放されてゐる生命は、歓びに充ちて充溢する──創造から創造へと。水彩画家といふ言葉、水彩画界といふ言葉、それ等は今日そのまゝ通用さる可く余りに不思議である。水彩と〔#「彩」に「ママ」の注記〕云ふ一の材料は、或る場合の或る感情によつて生かされる。決して我々の高翔飛躍する生命全体をそのまゝ托する力に堪え得ないものと思はれるのである。
一部の人達の如く、水絵を全部的に封鎖し、或は他の材料(油絵等)の従属的関係に於て見る偏見固陋の愚も嗤ふ可きだが、又一方に水絵の能性を誤算して凡ゆる多方面を持たせやうとするものも、まさに水絵の特質を失墜せしめ過信の結果は却つてその独立性を稀弱ならしめるものである。
 材料を材料として如何に生かす可きかは我々が製作に臨んで充分考慮すべき問題である。
 我々は今日の世界に於て何物にも優つて美術家の勝利を確認する。嘗て前世紀の人類が恐らく予想だもし得なかつた能力を代表して、彼等の熱情と信念に依つて賞讃措く能はざる美の境地を拡充伸展し、人類文化の前線に立つて美術家はその指標となつた。疲れることを知らない熱心と、止まることを知らない情熱の炎とに依つて、彼等はその身辺にある凡ての物質を材料として、彼等の世界主に捧ぐ可き新しい花束を拵らへる。昨日も、今日も、おそらく明日も。
 彼等の努力は真に真剣でありまた狂歓である〔#「狂」に「ママ」の注記〕。我々はそれ等今日の道を開拓して呉れた先輩達を礼讃渇仰し感謝すべき多くのものを持つ。而も時々日々動揺し変転し進歩して止まない我々の周囲に対して一日も晏如《あんじょ》たることは出来ない。明日の為めに今日の道を今一歩進めなくてはならないのは我々の義務である。嘗ては先人の残して呉れた道をそのまゝに、安らかな歩みを運べばよかつたかも知れない。然し「師恩」は今日別の解釈に於て感謝されなければならない。それこそ実に我々自身の力に於て。



初出:『みづゑ』222号(1923年8月)pp.2-3
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.16-19
  1. 2014/09/11(木) 22:21:20|
  2. 評論・随筆等
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思ひつく事など─二科と院展 新人の生活態度と其芸術観

 写実の本道といふやうな言葉がこの頃よく言はれますが仲々難かしい言葉だと思ひます。客観的にそういふ言葉が言はれ得るか一寸考へさせられます。画家が彼等の生活に忠実であり真剣であつたならば、その作る所の作品はとりもなほさず真剣であり正直であるでせう。それが私は画の本道だと思ひます。そしてそのことを措いて他に本道と言ふ言葉は無いのではないかと思ひます。ですから今日までにあつた­­­­──あるひは今日ある所の凡ゆる流派の他にあるたつた一つの境地に住む作家でも、彼は彼自身を表現してゐることに於て真剣で正直であるならば、とりもなほさず本道を歩くものとしなければなりません。
 芸術の本道とは既定された外的条件の準繩《じゆんじやう》にあるものでなく彼自身の内的表現そのものにあると思ひます。何物にも拘束されない純にして自由な、彼そのものゝ表現を措いて本道はないと思ひます。然し、その表現する主体である彼自身──客観的に言へば個性──それをも軽々しく肯定速断することもむづかしくはないでせうか。
 一体、つきつめた意味での個性などゝいふものが在るか無いかさへ疑問です。昔から自我否定の思想といふのが維摩《ゆいま》や釈迦等によつて説かれたそうですが、それ等の考へに随へば元来自我などゝいふものはこの世の中にないので、それがあると思ふのは認識不足から来る錯覚だといふそうです。結局人間といふものは生きてゐるのが間違へだといふことになりませうが、といつて自殺することも出来ない。自殺─行為─は矢張り三界輪廻《さんがいりんね》の業《ごう》を新しく一つ増すことになる。自殺といふことが既に自己を認めるからでそもそもの間違ひといふのだそうです。人間は何にも思つてはいけないし行ふことは猶更いけない無意志無行為空々寂々で〔#「寂」に「ママ」の注記〕居なければならなくなり、そうすると画を描くことなど大体最初から罪悪で高人の恥とする所になりそうです。そういつて終へば話はそれ切りです。又目下の所そんな話が出ても仲々そうとは悟り切れない。で結局下手くそな画を描いては展覧会へ出品して及落に赤くなつたり青くなつたりするやうなことになります。だからそうやかましく自我を考へないで先づ見た所その人々の稟性の相違位な所で片づけて行かないと面倒なやうです。ですから各自が正直に真面目にやれば、それが一番本当だと思ふ他はありません。

 何時も大概洋画の展覧会ではそうですが、今度の二科〔第十三回〕でも、気の附くことは題材が大抵似通つてゐて変化に乏しいことです。そんなことは下らないことだ題材などみんな同じでもよいではないかと言はれゝば、之もそれ迄の話ですが変化があつてもよいとしたら私にはその方が面白く思はれます。
 写生の時間が大体午前七八時から午後五六時までのもので、その少し前後になると描きにくいせいもありませうが、夜景─月夜とか黎明─日の出とかはこん度はなかつたようです。雨の景色も─雪はありましたが─嵐のもやうなどもなかつたやうでした。それから海の景色は可なりありますが日本の地理から関連して考へて見ると多い方とは言へません。谿谷や泉や滝などは一二点あつたゞけでした。山も頂上から俯瞰する所よりも平野から望んだものでした。それはどうしてもその場に出掛けて行つて仕事をする油絵では、一々道具を運んだりするのが面倒で、骨の折れる仕事のせいでもありますがね。
 大多数が写生画ですがその他にもつと方面の変つた空想画なども混じつてゐてもいゝやうに思ひます。物語り的なものや劇的な場面や、夢のやうなとりとめのないものや、そんな方面のものも日本画の方にはあり乍ら、洋画の方には少いと云ふより殆どないのは矢張り展覧会を淋しくするやうに思はれます。そんな画が一概に甘いとばかりも言へないと思ひます。
 それに適はしい性格の人で真剣に描かれたら、それは甚だ面白くはないかと思ひます。
 思ひつくまゝ取りとめもないことを書きました。



初出:『美之國』2巻10号(1926年10月)pp.29-30
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.20-22
  1. 2014/09/11(木) 22:20:23|
  2. 評論・随筆等
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研究所第七回新年会に就て

 「斯う脚本も定つたし役割も定つたから、もうそろ/\白《せりふ》を覚えやうぢやないか」。こんな会話が研究所の一室に取換はされてゐたのは丁度十月の下旬頃でした。
 何でも例年に劣らぬだけにやらうと云ふので、それからといふものは殆ど毎日白を暗記する事に勉めました。寄ると触ると芝居の話ばかり出る様な仕末ですから芝居の当事者(勿論皆がその当事者でしやうけれども)殊に俳優は各自に真面目にやらうと思つてゐるのに、周囲が又│恁那《こんな》│風ですから猶更無責任な事はしてならぬ様な気がしまして道を歩く時研究所の往き帰り殆ど絶えず口の中で「おい此端へ担ぎ込んで呉れ給え」「助役さんの家へ担ぎ込んでかまひませんか」とか一生懸命やつてゐました。
 白を覚えて終ふと、今度はやはり研究所で立𥡴古を始めました。こいつが随分面倒で(それだけ面白いのです)「僕は此時此所から出るか」「いや其所から出て来てはいけないよ」「でも此処からの方が動き易いよ」「だつて其所は君ストーブだよ」……なんてそれは面白いものでした。
 誰か舞台監督をして呉れる人があれば好いのですが、何分自分達が銘々勝手にやるものですから、自然不統一が生じて面白くないとも感じました。
 けれども習ふより慣れろとかで、だん/\各自の扮する人物の性質等が分つて来ると、白のアクセント等も、面白くなつて来て、益々興味が湧いて来ました。
 それから絵葉書の事ですが、これは新年会当日、則ち一月二十五日に出席のお方に当座で上げられる様にと、一週間ばかり前に撮影する事になりました。バツクの方は赤城さんのお骨折りで、感じの好いのが出来ました。それも何や彼やで、忙しいものですから、丁度写真を撮る当日の晩方になつて漸々出来上りました。早速舞台に箝めて見て扮装の出来た順序で舞台に立ちました。一番最初に「パリアス」を写して最後に「人形」を撮りました。
 強烈な、マグネシウムの光がパツと私達の目を眩ませると、これで最う写真は出来た訳です。
 それから後といふものは、眼の廻る程忙しいんです。方々から衣裳を借り集める、道具の修正をする、プログラムを注文する。プログラムの表には小泉さんの彫られた埃及《エヂプト》模様が、気持よく刷《す》られました。其他緞帳も拵へねばなりませんでした。丸山先生の洋服をお借り申して来た人もありました。新年会の前日二十四日は朝から曇つたり降つたりで、ほんとにどうなるかと心配しました。夕方から又降りだした意地悪い雨は其晩休むまで止みませんでした。でも翌二十五日にはすつかり降り止んで曇り勝な空ながら愉快でした。朝早くから舞台を飾つたり、舞台𥡴古をやつたり、絵具の粘り付いた板の間を雑巾掛をしたりなんかする内に、丸山氏、木下春子氏、白滝氏、戸張氏、茨木氏などお見えでした。階下《した》では例の様に一時頃から月次会が開かれました。それが済むと直ぐに皆が二階(舞台は二階にあるのです)へ上つて、さ程広くもない観客席はもう一杯になつて終ひました。何時の内にか先日の絵葉書とプログラムは皆の手に持つて居られます。それから階下の室は直ぐに紅茶店になる。最初に上場される「パリアス」は最《も》う、すつかり仕度が出来て、寺田さんの考古学者と舟木さんのアメリカよりの帰朝者とが「早くやれば好いになア」。他人《ひと》に見られない様にと大きな幕みたいなものを被つて二人が二階へ行くと暫くして幕が開く。眼を丸くした観客諸君の拍手が起る。十月からこのかた、長い/\白を暗記した両君の姿が明く照された電灯の下に浮び出ると、シンとなつた観客の眼は、どんな微細な挙動をも見逃すまいとして両君は視線の集点になつて終ふ。
 更に階下の一室では水野さんと後藤さんとが、此又忙しさうに受付の方を預つてゐられました。一方楽屋でも、此次の「轢《ひか》れし駅夫」に登場する人達が盛に化粧をしてゐる。金関さんは砥《と》の粉を塗つて若き駅夫に扮する。小泉さんは矢張りお白粉や砥の粉を塗つて老駅夫に扮する。
 湯原さんは又茶屋の娘お夏になる。それに私の助役。尾崎さんや相田さん達も手伝つて下さいました。
 とかうする内に小さな劇場から又拍手の声が聞える、今終つたなと思つてゐる内に寺田さん達が下りて来られる、私達は舞台裏まで行つてゐる内に、川幡さんの尺八がありました。それが拍手の内に終つて幕が開くと又拍手が起る。
 「おい此所へ担ぎ込んで呉れ給え」といふ私の眼に丸山先生や白滝先生のニコ/\されたお顔がチラチラ見える。これは𥡴古が不充分だと思つてゐたものですから猶更白がつかへる、気はあせるといふ仕末です。どうにか終つて幕になる。三幕目は「影」で、これは「死の勝利」の後日物語の様に出来てゐるものでした、小山さんの扮したジョルジオ・アウリスバの影と、寺田さんとヒボリタ・サンツオオの影とが伊太利の七月の夜に、真黒に茂つた橄欖《かんらん》の樹の下で過去を追想して過ぎ去つた美しい歓楽の夢を辿る様な筋でした。電灯の笠から青色の巾を垂れると、凡が青い光に包まれて、物悲しい様な、又何処となく物凄い様な空気が漂ふて、如何にも死後の二人が再会して物語る夜を想はせられました。一番おしまひに喜劇『人形』をやりました。金関さんの玩具屋の主人コルネリウス。湯浅さんの主人の伜ベンヤミン。望月さんの甥ハインリヒ。私のベルタ。これは可成《かなり》𥡴古が積んでゐたものですから「轢れし駅夫」程てこずらずに行きました。ハインリヒとベルタとが手を握つて「さようなら」を言ひ捨てゝ出て行くと、銀の縫ひとりのある黒い緞帳が静かに下りる。
 これでお芝居は終りなのです、それからは、榎本、寺田、加藤さん方の長唄があつたり、金関さんの落語があつたり、浅野さんのマンドリーン等これで新年会は愈々終りました。
 ほんとに楽しみにしてゐた新年会が終つたとき、がツかりした様で暖いお湯で顔のお白粉を洗ふとき何だか勝利の悲しみとでも言ふ様な感が興りました。
 そこいらに散らばつた衣裳や靴や化粧道具を片づけて、風呂敷に包んで胸に抱いて、人通の稀になつた通を神楽坂まで帰つて来ました。
 そして何にも考へずに無意識に疲れた体を持て余した様に歩いてゐると、あの蕎麦売の滅入る様なチヤルメラの音を聞いた時│吃驚《びつくり》する程神経を刺撃せられました〔#「撃」に「ママ」の注記〕。そして「力を入れてドシ/\歩け」と促す様にも聞かれました。
 冗漫なとりとめもないものを書いて終ひました。これで筆を擱きます。



初出:『みづゑ』109号(1914年3月)pp.29-31
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.170-173
  1. 2014/09/11(木) 22:16:22|
  2. 評論・随筆等
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日暮里駅

 長い長い、石の上を、コトコトと歩き、端まで来た。振り返つて驚いた。月が出てゐる──。
 直ぐ眼の前に、真黒な一枚の空の中に、光芒のない切り抜き窓。まんまるい窓。
 数条の、震へる鉄線に、それは突き刺され、寒そうに凝り固まつてゐる。
 昼間でも、崖下の、陰気な程、随分煙で汚れた、たゞ広い停車場である。片側は、しかし、開けて、バラツクだが、隅田川へつゞく街並だから、崖の方から下りて来れば、明るい色に眼が開ける──。が、崖の方へ電車を降りたら、夜だと、一寸そこが気味悪るい。頭の上が墓場で、そこに、空に背を延ばす大坊主が立つて、片手に持つた赤い聯隊旗を打ち振る。打ち振る。
 建物の翳も動かず、風もない、寂寞たるこの一角に、忽ち轟々と地響きして、鉄線の上を、陽気な怪物が、月から送られる。
 胴中が開けて、黒、ダンダラ、灰、赤、褐種々な色彩した、可愛い程な生き物が、ゾロ/\と無数にこぼれ出る。色彩で景色が一杯になる。全く目茶苦茶で──
 ──ねっとれ──。ねつとれ──。(駅名は正確に呼んではいけない?)
 眼の前に、一際大きく、濃紫の翳がさす。ヒラリ! 白い顔。白い足。胴中の口から覗かせて。
 ──あした九時よ。きつと。間違ひなくね。此所に。いゝこと? ね、ね、──
 くどい。が、しかし娘だから……。
 相手は金釦の、胸に手を挙げて、マントの前を合せて降りる。ふり返つた。が、握手はしません。勢よく、階段を跳ね上つて靴音を響かせる。

 ──四十秒! 墓場に立つた大坊主が旗を振る。赤いその聯隊旗、と、また停車場は空になる。
 月の幻灯会。ベンチの下に吹き寄せられた、うす汚い紙くずの、感情で、私は見て居ました。
 まことに、これは夜だから。昼間なら、崖上の坊主も、霜枯れた草に根を包まれて、老齢の頼りなげに、寄り添つて立つ二本の大榎で。相図の旗は、子供たちが空に失つた、日の脚を染め出した凧である。



初出:『中央美術』11巻3号(1925年3月)pp.68-70
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.177-178
  1. 2014/09/11(木) 22:15:02|
  2. 評論・随筆等
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 緑の丘は柔らかそうに丸々と膨れてゐた。
 広々とした田甫の〔#「甫」の横に「圃」〕中にぬうつと突き出た岬のやうに、南からも北からも風は丘を目蒐けて突きかけた。丘の後方にある孟宗竹の藪はそのたびに黄色い葉を散らし、ザワ/\と鳴り亘つた。
 季節も春の終り。もう埃の立ちかけた白い道が田甫の中から来て、丘を廻つて向ふへ消えてゐた。八重桜は萎れてゐたが野の草花は今が真盛りであつた。
 田甫の中の道を一人の男が至極屈托顔で〔#「托」に「ママ」の注記〕歩いて来た。
 どんな屈托を彼は持つて居たか?
 それは、この年頃──彼は二十五から三十までの間に見えた──の、少し物を考へる村の青年の誰れでもが持つて居る、はつきりした──同時に実現からは一寸遠い考へからであつた。
 一本の道はズル/\と彼をその屈托と一緒に丘の麓まで引きずつて来た。
 そこらは丘の小さな草花で空気が濡れて匂ふた。
 丘の上にかすかな月があつた。
 夕陽が今沈まうとして紫晒の雲の中にすべつて行つた。
 晩春のなやましい重圧する空気の下で彼はその入陽に対つて顔を上げた──快よく柔らかな矢のやうなものが彼の額と眉の間を擽ぐるやうであつた。
 彼は立ち停ると気軽くひよいと笑つた「フヽフフ、フヽヽヽヽヽ」
 丘は全く綺麗な若草とその花々で包まれてゐた。
 丘の右端は断崖になつて真下の麦畑まで三間ばかり赤茶けた肌を露はしてゐた。
 児供が一人、断崖の上端に立つて夕陽を見て居た。児供の顔は陽に面して赤々と燃ゆるやうであつた。
 彼はピヨンと一つ飛び上つた。続いてピヨンピヨン……………
 児供はだん/″\高く飛び上つた──
 太陽を追つ掛けるのだ。
 しかし彼が飛び上るより太陽の沈む方が早かつた。
「見えない 見えない」しかし不思議な光はまだそこいらにあつた。丘の上の夕月の光と共に小さな花は一層あざやかに輝き出した。
 児供は月に振り返つた。今沈んだ太陽が静かな化粧をして丘の上に来たのだ。
 児供はそれを見ると急に面白くなつて笑つた「フヽ フヽ フヽヽヽヽヽヽ」
 藪の中の家で娘は夕方の台所に忙しかつた。
 しかし片附けても片附けても仕事は余り沢山だつた。
 畑から帰つて来た父母や兄達の鋤鍬を洗ふことから、みんなの夕飯の仕度から、大きな釣瓶で風呂の水を汲むだけでも大変であつた。
 娘は実は自分一人なら、今夜の夕飯などどうでもよかつた。早く風呂を先にして化粧して終ひたかつた。今夜裏の丘で男と逢ふ約束をして居るのだから……。
 陽の入るのが今日に限つて大変遅いやうに思はれた。
 日が永くなつてからお陽様は藪の真中までやつて来てからでないと沈まなかつた。
 娘は裏扉口に出て藪の中を透して見た。
 金色に輝く藪の向ふに夕陽は今赤々と紫晒の雲の中にすべり行つてゐた。
 今日は何時まで待つてもお陽様は引込んでは呉れないのぢやないかしらと思つたに──
 はじめて安心した娘は快活に独言つた
 「妾も馬鹿ねえ、いくら日が永いつたつて七時にもなれば暮れるにきまつてるに……ほんとに馬鹿ねえ」
 いびつになつてゐた感情が立て直つた。
 そこで思はず声を立てゝ笑つた「フヽ フヽ フヽヽヽヽヽヽ」
 緑の丘は柔らかそうに丸々と膨れてゐた。
 風の落ちた夜、月の光で花々や草木の匂ひは益々濃くなつて行つた。



初出:『マロニエ』2巻3号(1926年3月)p.3
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.183-185
  1. 2014/09/11(木) 22:13:46|
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あんなに泣いてはいけない─艦隊入港試写の後に

 サンフランシスコの港へ艦隊が這入る。薄墨の海と白いチカ/\光る軍艦の俯瞰。黒い小さな豆のやうな水兵の団り。出迎へに出てゐる踊子達の形のよい水差しのやうな脚の林、彼女はその中の一人です。
 その夜のダンスホール。肩と脚と横顔と腕と背中、水兵の彼は彼女を択んで仲間と競争になる。種々な術策。──話は少し退屈。彼女の家まで送り届けた彼が階段の頂上まで女を抱えて駆け登るのでした。室内の其所此所にばら撒かれた光と影との綾の中を長い階段。美しい横縞。素足の女は脚をバタ/\動かす。男と女の母親との話を聞いて次第に女は男を信ずる。さめ/″\とわけのわからぬ涙を流す。──
 バルコニイに出る。沖合遠く碇泊した艦の灯が見える。男は女に接吻する。と、女は愕然として怒り出す。男は帰艦の時刻に遅れ、翌日は上陸を禁ぜられる。命ぜられた信号に女の名を入れたりしてみんなを手古摺らせる。女のゐる踊り場へ出掛けると競争者の男が邪魔をするので二人の格闘から水兵仲間一団の格闘になり彼は警察へ引かれる。が、彼女の犠牲的な厚意でやつと放免される。彼は女の誠意に感激しながら埠頭まで送つてくれた彼女に別れて艦へ帰る。
 クラヽ・ボウは大気の荒い海洋の岸辺から、椰子《やし》の木の下から、或は洪水の様な太陽の光の原野から、市井のダンスホールへ連れ込まれると忽ち匂の高い菫色が褪色する。──
 彼女はあんなにさめ/″\と泣いてはいけない。──さめ/″\と泣くことなどはリヽアン・ギツシユに任していゝ。──
 水兵達の格闘では、しかし彼女は体をくの字に屈げて鶏のやうに蹴るのでした。最後に、草の上に仰向きに打ち倒された彼女のクローズアツプ──丸い肩から白い二の腕は美しい。
 裁判所で、襟に桜花丸と書いたハツピイコートを着た彼女はみぢめです。スワンソンだつたら何とかなつたらう。
 あの清調と感傷との恋の場面に至つては他に適当な人が山程あるでせう。何かの迷信が彼女に薄ぼんやりとしたカーヴをつける。それは古臭い。
 彼女はもつと明快で、気まぐれで、雋敏で、唯物的で意味のない野生の蝶であつてよい。



初出:『中央美術』15巻1号(1929年1月)pp.88-89
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.186-187
  1. 2014/09/11(木) 22:12:39|
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ぼんやりした話

 Tさん所で喰べた桜餅の甘味《うまみ》がまだ口の中に残つてゐるのを私は歯の根から吸ひ出すやうにスウ/\吸つてゐた。
 曇つてゐるのか晴れてゐるのか分らぬ位に暖かく白く霞んだおぼろ/\の春の夜だ。
 体を凭《もた》せかけてゐた石の玉垣の手ざわりがヒンヤリと快い。境内に灯つた電燈もぼんやりと濡れたやうに眠たげな光を放つてゐた。
 ──それで。どうした?
 私はあんまり永いこと黙つてゐたので、さして訊きたくもない彼女の話の続きを促した。
 ──それから……それからそれつ切りよ。別れたくないのに別れねばならないと思つた時には死んだ方がいゝやうな気もしたけれど……それは一時の気持ね。
 ──そうかね。
 ──えゝ。時が経つと自然に変つて来るものだわ。アラーあそこは何処だらう──あそこのあの大きな桜は? 綺麗ねえ。
 ──あゝ。
 ──あなたはちつとも何んにも興味が無さそうねえ。星が出てゐますわ。
 ──星が出が出てゐるね。
 ──今年の正月Aに逢つたのよ、街で。船のやうな底の反つた下駄を穿《は》いてたわ。
 私達は、しかし薩張《さつぱ》り面白くなかつた。最前から一時間もこんな薄暗い神社の石段の上で石垣に凭れながら取り止めもない事を話してゐるのである。
 明るい街の方は賑やかで人の雑閙《ざつとう》の気配が聞えて来る。夜桜見物の人達である。
 私達は波止場に降りて行つた。海は黒い満潮に柔かく膨らんでゐた。シグナルの赤や青の灯。碇泊船の窓の灯。それ等の窓に小さく動く人の影対岸の山の境界線はぼんやり霞んで見えない。トン/\/\/\と小さな発動汽船が直ぐ足下から動き出して直きに向ふの大きな黒い船体の蔭にかくれる。水の中の灯が揺れる。──
 ──その時死んでゐたらどうだつたかな。
 私は又先の話の続きを思ひ出して云つた。
 ──そりあそれつ切りさ。でせう?
 ──まあおんなじこつたな。生きてゐるといふことも、死んでゐるといふことも。
 ──私も時々そう思ふわ。これが生きてゐるつてことなんか知ら……こんな風で、あと何十年と続くのなら随分困つたことだわね。
 ──まだ君なんか女学生ぢやないか。せいぜい未来に輝かしい希望を持つさ。
 ──「若き木の芽の生ひ立たば、何にとはなると問ひますな、冠の箱は少くて、柩ぞ多き世ならずや」よ。
 ──生意気言ふな。僕の死にに行つた話をしやうか。阿蘇山に死にに行つた話を。
 ──まあ、ほんとなの。何時?
   三年前だよ。中学生の時の話さ。

          ◯

 で、その話といふのは実に馬鹿気たもので、私は当時愈々学校を止めやうと努力して居た時で、同窓の友人にHといふ一寸風変りな無謀な奴が居た。これが所謂文学青年で学校でゞも小説ばかり読んでゐたもので其当時としても少し古い方ではあつたが兎に角色々面白い話相手であつた。
 そのHが失恋した──といつても、これも、夢のやうな話で、現実的に確とした相手があつてそれに失恋したといふのではなくて、一人で空想の女性を描いてそれに対して失恋したので、それでも当人は至極真面目に悲観してゐた。
 ──K君!
 と、その友人は或時突然私に云ひ出した。
 ──僕はとてもやり切れない。人生は無情で惨酷だ。僕はこの上堪えられない。一そ死んで終はうと思ふがどうだらう?
 ──それはよかろう。
 と私は言つた。
 ──よかろうか?
 ──よかろう。
 ──そんなら、君もそう言ふなら、死ぬと決めやう。
 私も実は薩張り面白くなかつたので眼の前に快く死ぬといふ友人を見て少し羨ましく思つた。
 ──僕も死なうかな。
 ──君も死ぬか。
 Hは眼を丸るくした。
 ──然し君は何で死ぬのだ。
 そこで私は学校が嫌で/\ならない事。小学校の時から何度│廃《よ》さうと決心したかわからぬ事。学校に行かねばならないなら死んだ方が増しである事。高等学校や大学等に何時までも行くやうな者は一種の変人であつて常識では判断出来ない事。その上嫌な学校を止めてもこれといふ外に目的もない事。世の中といふ所が噂に聞けばとてもやり切れたものでない事、等を挙げてそれよりも死んだ方が安心出来ると思ふと云つた。Hも悉く同態であつた。そこでその死ぬ方法として選んだのが阿蘇の噴火口に投身することであつた。
 丁度夏七月であつた。私達は熊本で汽車を降りて鉄道馬車で──その頃は鉄道馬車であつた──何とかいふ終点の駅に着いたのが夕方の七時頃ででもあつたらうか。それから七里ばかりの夜の山道を登つた。誰も通らないしん/\とした山道であつた。中天に高く小さな月があつた。浴衣の肌が冷え/\として心地よかつた。
 その晩は戸下といふ温泉に泊つた。体は疲れてゐたけれどもよく眠れなかつた。
 翌朝は宿の裏の渓流に降りて半日を過し、午後栃ノ木まで行つた。そこの宿でHは原稿紙二十枚位の遺書を認めた。その晩も眠らず頭がボンヤリして来た。考へたり行動したりする事が次第に憶劫になつて来た。その上噴火口まで日盛りの中を登るのは仲々大儀になつて居た。今少し遊んでゆきたいと思つても旅費が乏しかつた。死なうといふ人間が生きるのに心細くなつて来た。二人は出直すといふことになつてそんなら帰りの汽車代の無くならないうちに早くといふのでその翌朝早く宿を出て山を下つた。馬車にも乗れずカン/\照りつける陽を浴びて汗と埃に汚れた上熊本まで十二里ばかりの道を歩いたが汽車に乗り込んで腰を下ろすなり二人共前後不覚に眠つて終つた。
 二三日経つてからHが学校から呼び出された。
 ──君はKと二人で何処かへ行つたらう。
 厳めしい教頭の先生はテーブルの前に立つたHにいきなり浴びせかけた。
 ──ハイ、阿蘇に行きました。
 ──何しに行つた。
 ──死にに行きました。
 ──……………
 あんまり明瞭に答えたので先生も驚いた。
 結局散々叱られて謹慎を命ぜられたが、それにしても学校へどうしてそんなに早く知れたかといふに、これは後で聞いたことだが、私達が帰りの汽車の中でグツスリ寝込んでゐた時、Hが引き裂いて捨てるつもりで遺書を傍に放り出したまゝ眠つて終つたのを背後《うしろ》の席にゐた人が偶然◯市の小学校の先生だつたとかで、その人が不審に思ひそれを取り上げて読んだ。私達は浴衣がけではあつたが学校の制帽を被つてゐたので早速学校へ通知されたわけである。
 行きの汽車だつたら二人を抑へるつもりであつたが帰り途だつたので見遁した──とその先生の通知にあつたそうだ。

          ◯

 ──ちえツ! なつてないわね。
 彼女は私の話を吐き捨てるやうに舌打ちした。
 ──其時死んでゐたらよかつたらうに
 ──同じことさ。どつちでも。
 闇に塵屑《ちりくず》を浮かべた波止場の波がピチヤ/\足下を洗ふ。
 明日の晩は彼女の学校の紀念祭で余興があるから見に来いといふので行く約束をして別れた。
 十五年前の色の褪せた夢である。



初出:『婦人サロン』1巻4号(1929年12月)pp.157-160
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.193-198
  1. 2014/09/11(木) 22:11:29|
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弱気

 或る有名な学者で謹厳で人格者として世の敬仰篤かつた人が或日どうしたはづみにか銭湯の流し場で足を辷らしてひつくり返つたが、あゝいふ人が裸体でひつくり返つたりした所を見たらどんな感〔じ〕がするだらうか──といふやうな話を何時か読んだ事がある。
 湯屋の流し場でひつくり返る位のことは何かの拍子にありそうな事だし、又それが普通の人間だつたら、さして皆の注意を牽く程のことでもないのだが、それが普通以上に偉い人だつたり或は素晴らしい美人だつたりした場合にはこれは知らぬ顔では済まされない事件で、誰々は風邪で引籠中──など〔と〕いふ文芸消息欄の事件等とは比較にならない大問題である。そういつた尊敬を受けて居る人とか、非常な美人とかいふ、世間の注目を牽いて居る人が、ありそうもない一寸した失敗や滑𥡴な事などをやるといふのは確かに世人の喜ぶ? ことである。
 所で中川紀元氏の場合にも、そういふ事件が一つでもあれば、そうしてあはよく世間が未だそれを知らず私一人が知つてゐて、此所でそのとつて置きの事件を報告することでも出来たならば、私の話は忽ちにして大評判となり読者諸氏を無上に喜ばせることが出来るだらうが、幸か不幸か生憎《あひにく》と我が中川氏にはそういつた失敗談がない。
 それは第一に中川さんは──「氏」より「さん」の方が私には親しめるので中川さんご免なさい──生活の全般に亙つて非常に細心に注意深く慎み深い所があるからである。暫く対談して見ればそれは直ぐに感ぜられることであるけれども、どんな場合にも決して相手の感情を度外視して言動されるといふやうな事がない。傍から見てゐるとカナリ感情的になるやうな場合があつても、何時も自分を殺して相手を立てゝ行かれる所は、私など事毎に感心する所である。関はりの無い第三者の立場でゐられる場合でも、両者の間をうまく円滑に和合さして行くことに驚く程細心で、それはそういふ少しでも尖つた雰囲気の場面に耐えられないといふやうな、実に弱気の頂上である。
 私などは或る場合傍で見て居て大いに歯痒く思ふ時があるが、そうして時々それを云ひ出すのだが、そうすると、「いや、僕だつてそりやア」などゝ一寸強がりを見せられるが結局それはテレ隠しの強がりで其場逃れの偽悪的感情に過ぎないのである。
 こう云へば、では座談なども一向面白くなさそうに聞えるかも知れないが、それが又実に話が愉快で話好きで明るい諧謔とユーモアに豊富なのである。話好きと云へば中川さんは確かに話好きである。そのバスの声の話振りが甚だ愛嬌があつて、一杯やりながらの時などは顔の表情から身振り手振りに至るまで軽妙なるユーモアが溢れるのである。
 そういふ場合の種といふものは大概その日外出先での途上所見で、それが又一種独特の人情味に富んだ観察で特色のあるものである。
 一例を挙ぐればこんなことがあつた。
 或時市内電車の中で中川さんは吊革に摑まつて通路の中程に立つて居た。他にも多勢立つてゐる人達があつたが直ぐ近くに何所かの女学生が四五人ベチヤ/\饒舌りながら矢張り吊革につかまつてゐた。と其所へ粗末な絆天着の労働者が二三人這入つて来て女学生達の傍に立つた。すると今迄喧ましく饒舌つて居た女学生達は急に囀りを止めて眉を顰めながらツイと向ふの離れた方へ移つて行つた。労働者達は勿論故意に女学生等の傍に行つたのではないので恐らく疳に〔#「疳」の横に「癇」〕癪つた〔#「癪」の横に「触」〕ことだらうと思ふ。その中の一人が言つた。「俺達の様なキタナイ奴等が乗るとお嬢さん達が逃げて終はア」「やつぱり今時は洋服でも着て居なきア駄目だぞ。」車内には所謂洋服を着た人達が多勢居たのでその人達が何とか間をとりなして呉れるかと思つて居たが誰も何とも言はずに無表情にキチンと済まして居る。中川さんは困つた。女学生等は勿論癪にさわるし労働者には気の毒だし、そこで「洋服だつてこんな僕等の着て居るやうな代物では話になりませんよ……」笑ひながらそう云つて誰か助けて呉れるかと思つたが援助の言葉は何所からも出なかつた。唯労働者達だけが大声で「アハヽヽヽ」と笑つたそうだ。それにしても其時の女学生等──何所の学校だか知らないが──よ地獄に行け。
 こんな話を聞いてゐると私は中川さんが如何に世間の苦労性であるかを察しられて何だか一面傷はしい気がする。
 中川さんは弱気で謙遜で家庭的でどちらかと言へば引込み主義のやうに思へるが、それは余りに聡明で雋敏で凡ての事柄によく見透しがつくからだと思ふ。だから趣味としての碁や将棋やその他一切の競技的な勝負事は絶対に嫌ひらしい。ダンス位は時々やりたい等〔と〕いふ話も出るがダンスホールなんか華美な晴れがましい気がするらしく結局駄目になるので、蓄音器のレコードも洋楽よりは日本の端唄や義太夫等の人情的なものが枚数が多くなるやうである。仕事を見るとあの通りに積極的に勇敢であるが実生活は仲々弱々しく神経質である。



初出:『アトリヱ』7巻1号(1930年1月)pp.80-82
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.202-204
  1. 2014/09/11(木) 22:10:12|
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洋傘─もだん衣裳哲学

 パラソルといへばアスフアルトの街上に花の如く開く婦人のパラソルと、海岸の砂に突き立てられたダンダラ縞や碁盤縞の大きなピーチ・パラソルとを直ぐに想ひ出すが、洋傘といふ中には、昔からあるいはゆるかうもり傘といふ黒色のものがある。これは重に男子の雨傘として使用されるものだが、この二つの傘は同じ傘でありながらその各々が与へる感じが全然対蹠的であるやうに思はれる。
 ドシヤ降りの雨の朝、ジヤア/\と降る雨の音の外何の物音も聞えない。さすがの街の騒音もその日だけは雨のために圧へつけられて甚だ威勢が悪い。さういふ朝の停車場──例へば新橋とか東京駅とか新宿とか──その駅前の風景はどうであらうか。
 半弧を描いた大きな真黒いかうもり傘で路上は埋められて終ふ。二本の脚が僅かに傘の下からぶら下つてゐるだけで、のろくさい前屈みの姿勢でその傘の行列が続くのである。ザン/\ジヤア/\といふ雨の音ばかりで他の雑音は勿論、人間の話声などまるで消し飛ばされて終ふ。もつとも、そんな日には人は話しなど出来ないで、傘に吊り下つた二本の脚だけになつて終ふ。陰気で暗く憂鬱な風景である。
 しかし私はその風景が何か非常に面白く美しく思はれる。事実は人間が傘をさしてゐるのだけれど、さうは思へないで、脚を持つた黒い丸い、人間とは違つた何か他の生物がどんどん歩いて行く。黙つて無方向に只歩いて行く──さういふ風に思はれる。人間だつたらもつと智慧がある。あんなに無言でみんな同じ格構で〔#「構」の横に「好」〕無目的に歩きはしまい。第一あんな妙に不思議な形のかうもり傘など開いてそれを自分の体躯《からだ》の上から被つて歩くなどゝいふ無意味な妙なことは出来さうにも思へない。しかし実際には矢張り人間が傘をさしてゐるのであつて決して他の何物でもありはしない。雨が降るから傘をさすといふかも知れないが実は傘があるから雨が降るのではないだらうか。かうもり傘といふものを見ると何故かそんなに思へて仕方がない。かうもり傘にそんな魔力があるかも知れないと。
 さういつても私はどうもあの傘が不思議に面白くて好きだ。何処かに魅力を持つてゐる生き物のやうな気がする。
 一体かうもり傘といふ変な名前の傘は何処で発明されたか知らないが、日本に渡来したのは慶応三年といふから年号を繰つて見ると一八六七年である。今からざつと七十五年ばかり昔のことで、その当時は武士階級が重にこれを用ひたさうであるから、その時のこれ等の武士は大いにウルトラ・モダンであつたわけで、チヨンまげに大小差した武士達が鉄骨の黒い変な形の雨傘を差し上げて庇の深い家並の間を行く、その当時の光景は大抵想像するに難くない。
 所で一方パラソルとなるとこれは又まるで気持が違つて来る。
 これは明るく華やかで美しく、街頭を飾る装飾であり、一年々々と素晴らしい変化をしてゐる一切の時装の現象に伴つて、否、伴つてといふよりもこれ等はその最尖端を行くが如き変化を示して、持つ人の日光を避ける実用品ではなくなり、立派な一つの装身具となつた。その形状なり、色彩なり、模様なり、随分立派に美しいといへよう。然しより以上の慾をいへば、その形状も色も模様もまだ完成されたものではなく、今後もいろいろに変化すべきだらうと思ふ。
 私の今思ひ付く点を挙げれば、第一に骨数が多過ぎる。それも思ひ切り沢山あつて形が円形になる位にあれば格別、それがさうではなくて、といつて四角でも五角でもない。どつちつかずの半端もので甚だ形が面白くない。あれは思ひ切つて円か四角か五角位に出来ないものだらうか。三角形など殊によささうに思へるがこれは全部でなくともさういふ形のもあつてよいと思ふだけである。
 模様や地色は表と裏と違つてゐるのが流行のやうだが、あれは違つた方がよいやうに思ふ。しかし無地ならば別として模様ならば小さな花や草や、チラ/\した線模様などはいけない。総じて表よりも裏の方に今一段の工夫が必要である。何故ならば裏の方が直接その人の顔の背景になるからである。繊細な曲線や、飛び飛びにある花模様などでは顔は浮き出て来ない。寧ろ邪魔になる。もつと直線的な単純な大きな構図をつけないと折角の美しい顔も目茶々々になる。
 スポーツ・パラソル、散歩用ハンド・パラソル、訪問用パラソルといろ/\あるさうだが、顔の形や衣裳の色、種類等で各々適当な品の選択が要るわけである。
 今年あたりのパラソルの形は、心棒の上端や柄は勿論、全体が太くて丸くなつたやうであるが、四五年以前に時事新報の漫画で河盛久夫氏の描かれたものにパラソルのヅングリしたのを記憶してゐるが、その時の画のパラソルが実にそつくりそのまゝ今日の流行になつたのである。作者は大いに時勢を見る明があつたといはなければならない。
 所で時代の流行といふものが、スカートが短くなつた、長くなつた、半分になつた、パラソルが短いステツキの様になつた、どうなつた、かうなつたといつた所で、衣裳や装身具に関する問題で、結局人体の形態や色や模様そのものを変形するのではない。そんな外皮の事を如何に変化さして見た所でカンヂンな人間の形態そのものが変らない限り大した面白いことはない。現在の外科手術がもつと尖端的に突進して人間の形態や色彩等に新時代相を表現するやうになつたら面白いだらうと思ふ。画の方でピカソやレヂエやキリコ等の作品、アーキペンコの彫塑等参考にしたら面白い結果が得られるだらうかと思ふ。顔を真中から鼻を中心にして縦に切り左半分を捨てゝ、左の脚と右の腕とを胴体の同じ所に附ける。パラソルは三角形を横の方につける。或は膝から下の肉は削り取つて骨だけ出しておく──等といつた風にしたら真に人間が時装を間違ひなく現実に表現出来るのだが、現在のやうに身体は自然形態のまゝで放つて置いて、衣裳やパラソルばかり如何に変化さして見たところで、一向問題にするほどのこととはならないと思ふ。



初出:『週刊朝日』20巻15号(1931年10月1日)pp.80-82
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.205-208
  1. 2014/09/11(木) 22:09:20|
  2. 評論・随筆等
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