古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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橋本八百二氏・堀田喜代治氏洋画展感

 橋本氏。仲々軽快に爽やかな風致である。東雲の朝やけのやうに晴々と私も顔を上げる。
「道」「学庭」は全体の青灰調に所々に入れられた朱、ロンズ色が快く利いてゐる、筆も暢々と。
 赤い背景に赤白い花チラ「椿」。橙黄の背景に朱紅の点々たる「花」の二作──ほのかな情感の噴泉。「人間」の三点──多少構成的に施された色彩──しかし、物象の輪郭線と融合しない。「人体B」の両腕、肩に置かれた緑色は殊に破調である。
「支那皿のある静物」「葱のある静物」「五色の静物」はよく考慮された構図、「支那皿の静物」のギターの重々しい線は失敗? 「葱の静物」の中央に交叉された葱は構図を損じてゐるし、白い毛根を一つ一つ描いたのも目立つ。が、葉の緑、根の白は落ちついた色である。「五色の静物」の後方のビンを背景の中に溶け込ましてある所同感。
「春の情景」「春暖」はまた何といふポカポカと暖い桃色の情景であるだらう。蔽ふものゝ無い春の野原のまん中に居る感じ。「春の情景」の中央木の間に隙く空は殊によい。薄水色の空。「春暖」では点景人物や前景左方の木の根にある石ころのポツ/\が少々コマ絵臭いが明るい色と軽るい筆とに春の情趣は満喫出来る。

 堀田氏。嵐の夜の踏切のシグナルか。何か起りそうで暗示めく。
「大樹のある庭」「冬終る頃」「冬の樹木」「早春の郊外」──灰白、鼠、薄緑等の神経質的な尖りよりも、「卓上静物」「静物」「花に包まるゝ果物の夜」「二本榎風景」にある紫、朱、紅、暗緑、濃藍の強烈な色調に。要所要所に光る黄、白、白緑等の調和等の方に氏の稟性がひそみはしないか。その方賛成である。
 三七の「静物」は大作、色彩の濃艶さは充分幻想的である、多少混沌として物象を取り逃がしてゐる憾みもなくはないがそこに一種の幻怪的な空気も出てゐる。筆も生きてゐる。「花に包まるゝ果物の夜」──ぐるんぐるんと渦を巻く色、上も下も横も色。色。このとりとめもない色彩の夢はむせ返る花々の香りがする。
 風景では「脳病院の入り口」を採る。荒い筆で簡潔に物体を描き乍ら遠近もあり、色彩も美しい。「ミクロ山風景」は丁寧に細い物象を描き出してゐる明るい大作で色も調子も巧みである。「二本榎風景」はそれに反して暗胆とした強烈な色の取り合せの中に突然に入れたエメラルド、朱、黄等生々と効果的である。
「虞美人草のヒトムレ」──渦巻く緑と赤の点々。水彩「アネモネ」──の花五月のサクランボの一皿……。



初出:『中央美術』12巻7号(1926年7月)pp.98-99
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.248-249
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  1. 2011/01/20(木) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

第一回帝展概感

 中沢弘光氏、長原孝太郎氏は好きな人です。新井完氏、高間惣七氏、牧野虎雄氏、権藤種男氏、熊岡美彦氏、片多徳郎氏、多々羅義雄氏、池田永治氏は悪るく怜悧でヒネクレた人達だと思ひます。平岡権八郎氏、小寺健吉氏、大久保作次郎氏、清水良雄氏、はヒネクレルだけの元気のない人達の様です。
 総体にもつと悪気を捨てゝ純真無垢な小児の様な心で筆を持たれた作品を見せて欲しいと思ひます。色んな悪るい邪魔者の跋扈で魂が逃げ出してゐると思ひます。



初出:『みづゑ』177号(1919年11月)p.32
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.229
  1. 2011/01/15(土) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

第六回日本水彩画会展覧会所感

◆何時の時代にても、如何なる場合にても、只徒らに外形の尨大なるもの、形よきもの、又いさゝかは其時代に迎合する底のものが、社会衆愚の称讃を得る者の様に思はれる。等しくこれは芸術の世界に於ても間々見受けられる悲惨なる現象である。これは一団体の仕事にのみ止まらない、一個人の活動に於ても然りである。内容の空疎なるもの程外形の優美壮大に腐心する。此卑しい成心に社会は動《やや》もすれば欺かれ其燦爛たる外形に眩惑され終るのである。是が大なる誤りである事は茲に呶々《どど》する要は無い。我等は唯我等の芸術的良心の命ずる儘に活動すれば宜いのである。我等は衆愚に向つて法を説く説教者ではないのだから。
◆言ふまでもなく我等は形式よりも内容を、外への浮動よりも内への潜行を、饒舌よりも沈黙を尊しとするものである。然し展覧会といふものゝ性質上、全然社会を度外視するといふのは噓である、公表したる以上はその評価を得たいのは当然であるが千の盲目の嘲笑より一の具眼者の顰蹙《ひんしゅく》を恐れるものであるが故に、形様に依つて衆愚を驚かす愚をとらず何所までも質実に、赤裸々に、素直なる公表である。真の意味の芸術的進展は一に斯る態度に俟たなくてはならない。
◆回を重ぬる事六回に及んだこの水彩画会展覧会を、その当初に比較すれば、内容形式共に大いなる進展を為した事は万人の等しく認むる所であらう。「真」は唯一なもの、「誠」は勝つ。これは私の以上の言の過誤ならざる事を証して余りある事と思ふ。今日これを、広く文化史的見地よりするも、明治大正の絵画史の一部を飾るべき価値は充分である。
◆扨て個々の作品に就て感じた事を簡単に述べる。
 先づ丸山晩霞氏、石井柏亭氏、南薫造氏、三宅克己氏、中沢弘光氏等に就ては既に定評もあり、私が茲に更めて云はなくともであるが、丸山氏の山岳に対する親愛は年と共に、益益深まるかに思はれる。私はヒロイツクな氏の性格が山岳を対象とする事を当然な事と思ひ微笑を禁じ得ないものである。石井氏と南氏とは同じ壁面に隣り合つて陳列され、面白いコントラストを為してゐる。智に秀でたる世界と情に勝れたる世界と私は両者を有り来りのハカリに掛ける愚を避けるが、南氏の温情豊かな諸作には牽きつけられる所が多い。三宅氏の小品には瀟洒な版画趣味を見るべく、中沢氏の作また懐しき詩情を汲む可きものである。矢崎千代二氏は支那写生五十九点を特別陳列として出品されたが、孰れも氏一流の色彩の華美なる事に眼がつく。赤城泰舒氏の出品は小品二点であるが懐しき情味豊かなものである。氏を称讃するものも氏の片暈《かたぼか》しに就て非難する事があるがそれは外形のみに囚はれたる観者の不徹底なる観察である。氏の片暈しは物体の容積を表はす手段と見るよりは、小菊の花弁の尖端にまで震ふ作者の感情と見る方が至当である。手段でなく心其ものである。氏はミケランヂエロやレオナルドの世界を希はなくとも宜い、尊い氏自身を守れば宜いのである。
◆望月省三氏の諸作は何れでも皆同じ様な感じを与へる。極めて大摑みな表現法だが現代人の感情は今少し繊細を喜びはしないだらうか。森幸一氏の作は嘗て氏の持つてゐた純真素朴な心と牧歌的情調とが稀薄になつた様に思はれる。私は氏の以前の作の方を好む。寺田季一氏は「花」と「春光」との二点を出してゐるが従来の氏の理論的作より一歩を進めた観がある。神秘は必ずしも朦朧でない事は明らかだが、芸術の神秘は我々の数理以上のものである事を思ふ。私は氏の将来に期する所多いものである。後藤工志氏の今度の作は氏の作としては佳作とは云へなからう、例《いつ》もの氏特有の確かさが薄い。唯「池畔の紅葉」に揺ぎのない氏が見える。小泉癸巳男氏の作中では「夏の公園」に好い感情を唆られる、「静物」は器用な作だが氏の分野では無い。河上左京氏の四点は特殊な魅力を持つてゐる。切実なる現実凝視と透徹せる色彩の観察とは感嘆に余りある。殊に「自画像」「静物」は感銘が深い。吉崎勝氏の作は、氏の「人間」に接すると「作品」に接するとでは僅かの一致点を見出す外「人間」と「作品」との逕庭隔離をカナリ強く感ずる。芸術の世界に遠慮は不要だ、妥協は醜い、今少し大胆にやれないものであらうか。平沢大瞕氏の作は作為の痕が余りに見え透く。氏の器用さには驚くが器用といふ事は性格の一技能であつて何等芸術的価値の無いものである。構図を所謂新しくとする試みも甚だ常識的である。私は聡明なる君の一考を希はずにはゐられない。小山周次氏の作は或る安泰さを与へる。而も氏に於ては安泰より倦怠に観者を導く多くの大家に見る如き情味の涸渇は無い。此所にある美は清明素純な氏の性格の美しさである。永田二郎氏の作は懐しく優しい。加藤義助氏の作も亦気持の宜いものである。其他一々挙ぐれば長くなるのでこれだけにして置く。
◆水彩画振はずとか、水彩画は油絵に到る階梯とか物知り顔な世人の言を其儘に受けて、或は左様でもあらうかといふ先入主観に圧せられてゐる食はず嫌ひな人の来観を希望して筆を擱く。(八、四、八、読売新聞より)



初出:『読売新聞』1919年4月8日
   『みづゑ』171号(1919年5月)pp.27-29
   『絵画清談』7巻5号(1919年5月)
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.226-228
  1. 2011/01/14(金) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

二科院展に於ける一作家及一作品に対する感想

 二科会にも美術院にも色々好きな画があります。二科に出てゐる松田実氏(櫨畑)などもその一人です。氏の画の前に立つと如何にも力強いものが迫つて来る様に感じます。厳格で、神秘的でそれで妙になつかしさを感じさせます。固苦しくはありません。「あれさビナスに謎かけられて知らぬ顔してゐる様な野暮なヱカキぢやあるまいし解いて見ませうそのこゝろそれ……」こんなものを口吟《づさ》む氏は、真に自然の与える〔#「え」に「ママ」の注記〕謎の解決に勉めてゐる人です。それだけ熱烈な自然の憧憬者であります。氏の持つてゐる厳格さ優しさはそのまゝ自然の我々に対するそれでないかと思はれます。



初出:『みづゑ』152号(1917年10月)p.20
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.225
  1. 2011/01/13(木) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

不平不満の解放 寸言・不平不満

 美と芸術、現実存在と本質存在、具象と抽象、認識と観念等に就てのはつきりした理論を持つた批評家が、実際の作品に就いて批評することの少いのを残念に思ひます。今日数多く見る批評といふものは、甚だ無責任な主観的なものが多く、或る場合には極端に感情的でさへもあります。是等はいふまでもなく批評として無価値です。



初出:『アトリヱ』7巻12号(1930年12月)p.57
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.221
  1. 2011/01/12(水) 15:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

美術家の生ひ立ちと其環境(三)

 私の生れた所は久留米市の街はづれです。寺ばかり並んでゐるやうな町で私の家もその一つです。子供の心にも何となき淋しさと哀れさをを注ぎ込まなくては惜かないやうな鐘の音と老人達の因果話との中に育てられ戸外に出るのを好まなくなり、薄暗い本堂の花や慈眼豊かな金色三尊仏にいつとなく親しみを感ずるやうになりました。
 水勢の緩やかな筑後川、旅水路の〔#「旅」の横に「放」〕草原はのんびりと広がり、両域の平野にも変化なく一望唯坦々として平らかに、四季の変化も割合に単調で人々の風習も平凡、それ等に囲まれた蕪雑や粗野な中に捉へ所のない一味の憂情が育まれてゆくやうに思われます。



初出:『アトリヱ』2巻11号(1925年11月)pp.109-111
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.221
  1. 2011/01/12(水) 12:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

諸作家の材料調査

   一、主に使うカンヴァス
   二、使用の溶油
   三、使用の筆

一、きめてゐません、有合せのものを使います。
二、主にテレピン。
三、穂の長い柔らかなのが好きです。



初出:『中央美術』11巻9号(1925年9月)p.92
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.220
  1. 2011/01/11(火) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

美術家家勢調査

                            中央美術編輯部調査
   一、貴方は毎朝何時にお起きになりますか。
   二、床屋へは何日隔き若しくは何ケ月隔き位ゐに行かれますか、失礼ですが。
   三、御酒と煙草はどのくらゐ召し上りますか、序でに御愛用の品種を。
   四、御健康を保つ上に何か特別の養生法をおやりになつて居られますか。
   五、奥様をお呼びになるのに常々どういふお言葉をお用ゐになりますか。
   六、此の世で一番憎らしいとお思ひになるものは何んですか。
   七、貴方がお得意とする隠し芸を。
   八、貴方の娯楽と道楽をお聞かせ下さい。
   九、一ケ年を通じての御制作は平均どれ位ゐになられますか。
   十、和歌、俳句、短歌、都々逸、端唄──何んでも一ツ二ツ御近作を。

 拝復 御下問の諸項に対して「ふるつたお答を」との仰せに候へ共、その生活がピリツともふるはぬ小生にはお答ばかりをどうふるはせやうも無之候。第一朝起きること寝ること全く出鱈目にて近くの兵営より爽快なるラツパの聞え参り候通り、あれに倣つてやつて見やうと思ひ立ち居り候も未だ一度も実行せしこと無之候。晨に星を戴いて野に立ち、夜は行灯の下にワラヂを作つたり、書物を勉強したり、二宮尊徳のやうにやつてみやうと思つても思つたばかりに候。
 酒、酒は少し甞め候、中川〔紀元〕さん所でいつも御馳走になるときまつて小生の前にも盃を据えられ候故遠慮なしにチビ/\となめはじめ中川さんが三本位空にされる間に少生は二杯半位にてとうぜんとなり候。それ以上飲めば大病になり候。煙草は朝日を少し、貰えばどんな上等でも吸ひます。
 この他のお尋ねにお答すれば自ら暗やみの恥を明るみへ出すやうのもの故これにて廻れ右を致し候。かくし芸は特に公開を憚り候。御許し下され願ひ度候。



初出:『中央美術』11巻6号(1925年6月)p.65
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.219-220
  1. 2011/01/11(火) 12:00:00|
  2. 評論・随筆等
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春の街頭

「春の街頭」といふ命題だが、春と聞いても実はまだ時々雪でも降らうといふ現在だから、今年の春は仲々寒い。しかし寒いとは言つても、季節の上からは勿論春だし、日常の生活にも充分春の気息は感ぜられる。
 室内のガラス窓から透して来る陽の明るさにも、窓枠の桟に積つてゐる埃にも、空の色は勿論、若芽には早いが冬枯の木の枝の端にも、既に暖い柔かみが窺える。
 近所を通る豆腐屋のラツパの音、挨拶し合ふ人達の声にも、明るい調子は這入つて来た。チンドン屋が此頃は急に増して来てこれには大いに悩まされるが、これが天気晴朗となると又一段と景気をつけて騒々しくやるのは困りものだ。

 街頭と言つても所謂大都会の中心地帯へ行つて見ると季節の推移の現象はこゝに一番早く現はされる。
 先づ各大商店の飾窓から歩道の装飾、舗道の人々の服装表情、それ等のものがこれは毎年季節の変り目には目立つことで、何も珍らしいこともないけれど、冬から春になる時が最も明確に判ぜられる。今年の銀座は何だか一体に騒々しい。出兵諸氏への慰問品の街頭勧誘は久しい事だがそれに続いて北東饑饉の急援〔#「急」の横に「救」〕、それから震災地救助──街頭に於けるそれ等の係りの人達の吹き上げる喇叭の大きな声、それに和して怒鳴る大声、少年までがそれ/\の印章を胸とか腕とかに附けて大人に負けず絶叫して居るのを見ると駈足で逃げ出さねばならない。云つてゐる事の如何は兎に角として、あの騒々しい叫び声には閉口である。
 銀座などはそれでなくても人の波だ。夜の街をブラブラと散歩でもする人種でない限り、友人同志でさへも話などして歩くことは出来ないのである。あの騒然たる雑踏に春夏秋冬の区別はない。たゞ外形の一部分だけが変貌するのみである。
 しかし同じ舗道と言つても静かな所も所に依つては無いことはない。そんな所を通る時には一寸安心して気持ちよく歩かれる。どうかすると歩道で行き逢つた人がゆつくり立ち話の出来る街もある。普通の電車通りで円タクは勿論駈つてゐるし並木もあるといふやうな所で、陽当りの好い通りで店頭へ出で犬の頭でも撫でゝゐると近所の子供達が持つてゐるせんべいでもやつてゐる、暗い店先からわざわざ歩道まで出て立ちながら新聞を読んでゐる──そんな街ならば春先の風景としてもそれらしい長閑さが見えるものである。そんな一寸散歩でも出来る街、さういふ街には春先きになると用も無い時でもたゞ通つて見たい事もある。
 たゞ何所へ行つても大概の通りにはカフエーとか喫茶店とかいふ店が激増して、同じやうな蓄音器をガア/\鳴らしてゐる。これ如何ともしかたのないことで、孰れにした所で春は朗らかに、殊に美人は妖艶さを増すと決つてゐるものださうだから、少し位の騒々しさは我慢しなくてはなるまい。



初出:『美之國』9巻4号(1933年4月)pp.52-53
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.217-218
  1. 2011/01/10(月) 18:00:00|
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  3. | コメント:0

 嘗て誰氏かの書かれたもので読んだ記憶であるが、この現在の社会の大部分の人が毎日その外出先から──多くはサラリーマンであるが──それが殆ど同じ時間に、同じ道を、各自の住家に帰つて行く。それが一向不思議さうな様子も見えず極めて平然と歩いて行く。昨日の道も今日の道も、昨日の家も今日の家も大体同じ道であり同じ家である。これは不思議なことではないだらうか──といふやうな感想だつたと思ふ。
 考へて見るとなるほど不思議な話である。それが日常の習慣となつてゐれば別に何等の不思議も感ぜず、退屈をも通り越して無感覚になつてゐるのだらうが一寸考へるとこれは随分驚く可き現象である。昨日出勤した会社も今日のそれも同じだといふことは不思議と云へば不思議に相違ない。しかしこれに類した馬鹿気たことは我々の現実に数へ切れぬ程あるだらう。人間の顔が毎日大抵同じである。家に帰つて見ると昨日と同じ妻君の顔がある。よく見ても見分けの附かぬ程同じ顔である。これは驚く可きことだ。
 顔のことゝなると私は自分で驚く程知人の顔を忘れる。顔と名と人とが同時に一つとなつてそれを何時までも覚えておくことは仲々むづかしい。街頭などで或は何所かの会合などで、親しく話しかけられても、私には一向それが誰だつたか思ひ出せないで困ることが多い。これは私に限らず大概の人にさういふ場合はあると思ふが、私にはそれが実に屢々で極端なのである。そのために随分いろ/\な人に失礼してゐると思ふが自分ではどうにも仕方がない──さういふ人々に対してこの際こゝでお詫びを申します──。
 顔といふものは較べて見れば少しづゝ各々違つてゐるやうだが、時たまにひよい/\と現はれて来る顔といふものは一々差別がつき難い。それでゐて一人一人の人間が違つてゐて感情なり思想なり性格なり、みんな同じではないといふのだから困つたことである。人と話してゐる時ぢつとその人の顔を見てゐると愈々不思議に思はれて来る。この顔がこの人で──さう思つて暗記しやうとする。仲々困難なことである。
 それにしても人間の顔がみんなお互に似過ぎてゐるのが欠点だらうが、しかし対談してゐるとその同じ顔がいろ/\なものに変つて動いて来る。肥つた顔、瘦せた顔、赤い顔、白い顔、浅黒い顔、それが山のやうな形に動いたり、野原のやうに広がつたり、鶏のやうになつたり、小川が見えたり、大きな魚が泳いでゐたり、魚と川岸の花との会話のやうなものが聞えたり、かと思ふと人間らしく口があつて煙草を吸つたり、嵐のやうな、森のやうな、おかしくなつて笑ひ出したり……
 一体我々の肉体といふものがえたいの知れないものである。煙のやうなものかと思へば、崩壊した山の土塊のやうでもあり、肉の厚い植物の大きな丸い葉のやうでもあり、茶褐色の水溜りであつたり、釣り下がつて汗かいたシヤボンであつたり、美味いやうなまづいやうな、好きなやうな同時に嫌なものゝやうな、消えたり隠れたり沈んだり実に不可思議極まる存在である。
 誰かに逢ひたいと思ふ時があると以上のやうなモヤモヤしたもの想つて躊躇する。人間に顔や肉体がなかつたらどんなに気持が晴々とするだらう。私自身人々の眼の前にえたいの知れない顔や肉体を曝して歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ時出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。
 人間の顔が恐ろしくて人に逢へなくなる時私は犬達と話をする。犬は人間よりも直接に単純に話が出来る。
 真暗な室で眼をつむつて漆黒の地球儀を廻して見給へ、そしてその透明な表情を見て見給へ──そんな言葉を想ひ出す。



初出:『美術新論』7巻10号(1932年10月)pp.70-71
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.214-216
  1. 2011/01/09(日) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
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