古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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ジャック・エロルド

ジャック・エロルド(Jacques Herold) 1910年〜1987年

画家。ルーマニア生まれ。20歳の時にフランスに渡る。1934年、シュルレアリスムのグループに加入。ヴィクトル・ブローネルとともに第二次世界大戦後のシュルレアリスム運動の中心的存在として活躍する。「結晶の画家」とも呼ばれる。1980年頃、阿部良雄(フランス文学者、東京大学名誉教授)がパリで「日本のシュルレアリスム」について講義した時、「是非講義に出たいが、どうも朝早過ぎて」というエロルドのために知り合いの批評家の自宅で一晩、戦前日本の前衛絵画のスライドを写して見せた。阿部が「どの画家が一番印象に残ったか?」と後で尋ねたところ、名前は思い出せぬままに、「あの形而上絵画の作家だ。アンドレ・ロートを模倣したそうだがロートよりずっと優れた画家だと思う。」と、明らかに古賀春江を指す答えが返って来たという(註1)。


(註1) 図録『古賀春江―前衛画家の歩み』(石橋美術館・ブリヂストン美術館、1986年)p.10

参考資料:
「ジャック・エロルド 結晶のイマージュにとり憑かれた画家」(日本アートNipponArtのブログ) http://blogs.yahoo.co.jp/art_nippon/21565402.html
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  1. 2012/10/31(水) 12:00:00|
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松田一三

松田一三

銀行家。1939年7月から1956年3月まで十八銀行頭取。長崎商工会議所会頭を歴任。1928年、古賀春江が神経衰弱の療養で長崎に滞在した際に新大工町の別荘の2階を無償で提供した(註1)。


(註1) 古川智次編『近代の美術 第36号 古賀春江』(至文堂、1976年)p.59
  1. 2012/10/30(火) 06:00:00|
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町田トシコ

町田トシコ(まちだ・としこ) 1896年〜?

詩人。長崎県生まれ。1912年、鶴鳴高女卒。1918年、仏教専門紙として知られる中外日報編集部に入る。1919年、退社。1936年、中外日報再入社。1956年、定年退社。勤務の傍ら、佐藤惣之助が主宰する「詩之家」の同人となる。浄土真宗西本願寺に僧籍を持つ。著書に『郷愁の長崎』(新元社、1956年)、『かんころめし』(中央公論社、1958年)、『かんころめし特派員』(中外日報社、1961年)などがある。古賀春江は若い頃からの詩友で、1928年、町田と好江夫人の勧めで長崎で神経衰弱の療養をしている。この療養期間中に古賀は《生花》《山ノ手風景》《蝸牛のいる田舎》などを制作、その傍ら、長崎医科大学の教授や当地のアマチュアの絵の指導を行っている。この間、古賀夫妻、町田との共同生活であったという(註1)。


(註1) 古川智次編『近代の美術 第36号 古賀春江』(至文堂、1976年)p.59
  1. 2012/10/29(月) 12:00:00|
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菊池寛

菊池寛(きくち・かん) 1888年12月26日〜1948年3月6日

小説家、劇作家。本名・寛(ひろし)。1910年、第一高等学校に入学。1913年、中退。のち京都帝国大学英文科卒業。1914年、一高時代の旧友、芥川龍之介、久米正雄らと第3次『新思潮』を、1916年、第4次『新思潮』を起こし、同年、「屋上の狂人」、1917年、「父帰る」などの戯曲を経て、1918年、「ゼラール中尉」「無名作家の日記」「忠直卿行状記」、1919年、「恩讐の彼方に」「藤十郎の恋」など小説を矢継ぎ早に発表して認められた。「入れ札」(1921年)、「蘭学事始」(1921年)などの名作を残す一方、新聞連載の『真珠夫人』(1920年)の成功によって通俗小説に領域を広げ、昭和期には通俗小説家として大成。また雑誌『文藝春秋』創刊(1923年)以後の出版事業の成功、劇作家協会、小説家協会設立(1921年、のちあわせて日本文芸家協会)による文筆家の福利厚生事業、芥川賞、直木賞の設定(1935年)による新人育成などで「文壇の大御所」と呼ばれる実力を示した。『有憂華』(新潮社、1931年)の装幀を古賀春江が担当。
  1. 2012/10/21(日) 21:00:00|
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谷譲次

谷譲次(たに・じょうじ) 1900年1月16日〜1935年6月29日

小説家、翻訳家。新潟県生まれ。本名・長谷川海太郎。筆名は他に牧逸馬、林不忘がある。国家社会主義の論陣を張ったジャーナリスト・長谷川淑夫の長男。次男の長谷川潾二郎は洋画家、三男の長谷川濬はロシア文学者、四男の長谷川四郎は作家。函館中学卒業直前の1917年、ストライキ事件で退校。1918年、単身渡米。各種の職業に就いていくつかの大学で学ぶ。1924年、帰国。翌年からアメリカ放浪体験を生かした『テキサス無宿』『めりけんじゃっぷ商売往来』『もだん・でかめろん』などの”めりけんじゃっぷ”ものを谷譲次の筆名で発表。さらに牧逸馬名で海外探偵小説やコントの翻訳、主婦層の人気を集めた『地上の星座』などの家庭通俗小説を、林不忘名では『新版大岡政談』で片目片腕の怪剣士・丹下左膳を創造するなど、それぞれの筆名ごとの文体を駆使して精力的に小説を量産した。『踊る地平線』(谷)や『世界怪奇実話』(牧)などの実話読物もあり、一人数役以上のマルチな才能を示して”文壇のモンスター”と呼ばれたが、35歳で急死。『一人三人全集』(全16巻、1933〜35年。全6巻、1969〜70年)がある。『もだん・でかめろん』(改造社、1929年)の装幀を古賀春江が担当。
  1. 2012/10/21(日) 20:00:00|
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梅野隆

梅野隆(うめの・たかし) 1926年〜2011年7月28日

洋画コレクター、画商。福岡県八女市生まれ。父親は青木繁の友人で遺作の大半を所持していた梅野満雄。1951年、長崎経済専門学校(現・長崎大学経済学部)卒業後、㈱ブリヂストンに勤める傍ら、父の影響から美術品蒐集を始める。1985年、ブリヂストンタイヤ大阪販売㈱監査役を退任。同年、東京・京橋に画廊「美術研究藝林」を開設。1997年、閉廊。1998年、北御牧村立梅野記念絵画館開館、館長に就任。2004年、合併により東御市立となる。今西中通、伊藤久三郎、菅野圭介、吉田卓ら、忘れ去られた実力派の画家を発掘・顕彰することに力を入れてきた。著書に『美の狩人』(西田書店、1986年)、『美神の森にて』(西田書店、1992年)がある。20代後半から30代前半の久留米勤務時代に古賀春江作品の研究・蒐集に傾注し、諸方に散逸していた初期水彩画約50点余と油彩画数点の蒐集を行う(註1)。


(註1) 『北御牧村立梅野記念絵画館―父子二代にわたる眼の軌跡―』(北御牧村立梅野記念絵画館、1998年)p.46
  1. 2012/10/21(日) 00:00:00|
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古賀政男

古賀政男(こが・まさお) 1904年11月18日〜1978年7月25日

作曲家。福岡県生まれ。幼い頃父と死別、一家で兄を頼っていまの韓国に渡り、ソウル(当時は京城)で商業学校を卒業。その後、大阪の兄のもとで奉公生活をしていたが、家出同然の形で上京。苦学しながら明治大学に学び、マンドリン倶楽部に入った。1928年、同倶楽部の演奏会に当時のスター歌手・佐藤千夜子の出演を頼み、自分で作詞作曲した処女作「影を慕いて」を発表。この曲は1932年、藤山一郎が歌ったコロムビア盤が大ヒットした。古賀自身は1930年にコロムビアに入社、1931年に藤山一郎とのコンビで「酒は涙か溜息か」をヒットさせ、中山晋平節に続く”古賀メロディー”を定着させた。半世紀にわたって書き続けた曲はおよそ5000曲といわれる。その他の代表曲に「丘を越えて」(1931年)、「青い背広で」(1937年)、「誰か故郷を想わざる」(1940年)、「湯の町エレジー」(1948年)、「トンコ節」(1949年)、「ゲイシャワルツ」(1952年)、「東京五輪音頭」(1963年)、「柔」(1965年)、「悲しい酒」(1966年)などがある。世を去るまで歌謡界の大御所であり続けた。没後、国民栄誉賞を受賞。古賀春江との出会いは「酒は涙か溜息か」のレコーディングを終えたばかりの頃で、この曲にすっかり魅せられた春江は代々木の政男の借家を好江夫人と同伴で訪れた。その後、春江の死まで2年ほど交友し、詩と音楽の話に花を咲かせた。春江が政男に贈った油彩《音楽》(古賀政男音楽博物館、1931年)は「酒は涙か溜息か」をモチーフにした作品である。
  1. 2012/10/16(火) 21:00:00|
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片岡鉄兵

片岡鉄兵(かたおか・てっぺい) 1894年2月2日〜1944年12月25日

小説家。岡山県生まれ。慶應義塾大学仏文科中退。1921年、「舌」で文壇に登場。1924年、横光利一、川端康成らと同人雑誌『文芸時代』を創刊。新感覚派の作家兼論客として活躍し、短篇集『綱の上の少女』(改造社、1927年)を出すが、1928年、左傾し、「生ける人形」(1928年)、「綾里村快挙録」(1929年)などのプロレタリア小説で注目される。1930年、検挙。1933年、転向。出獄後、少女小説、大衆小説に手を染め、晩年は戦争に協力的な態度をとった。『女性讃』(新潮社、1930年)の装幀を古賀春江が担当。
  1. 2012/10/04(木) 09:00:00|
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