古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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泉治作

泉治作(いずみ・じさく) 1893年11月18日〜1964年3月

洋画家。福井県生まれ。1919年、第1回横浜美術協会展で奨励賞を受賞するなど横浜を中心に活動。1922年、中川紀元、神原泰、古賀春江らとともに二科会系の前衛美術団体「アクション」の創立同人となる。1923年、第4回中央美術展に出品。1924年10月、「アクション」解散。同年11月、横山潤之助、山本行雄、永田一脩らと「ヴェルム」を結成。1925年、京橋の望紗瑠荘での「ヴェルム小品展覧会」に出品。1927年、二科展入賞。のち石井柏亭に師事し、一水会を作品発表の舞台とする。1953年、一水会会員。


参考文献:
図録『大正新興美術の息吹 アクション展』(朝日新聞社、1989年)
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
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  1. 2012/11/27(火) 12:00:00|
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飯田三吾

飯田三吾(いいだ・さんご) 1900年〜1965年

洋画家。三重県四日市市生まれ。父は6代続く飯田病院の院長。1918年、三重県立富田中学校を卒業。同年、上京して本郷に住み、川端画学校に通い藤島武二に師事。同校で横山潤之助を知る。1922年、横山に誘われて中川紀元、神原泰、古賀春江らとともに二科会系の前衛美術団体「アクション」の創立同人となる。第1回展と第2回展に出品するが、1924年、「アクション」解散。アクション以後は作品を発表せずに制作を続ける。1925年、結婚後、武蔵野市吉祥寺にアトリエを建てる。この頃、海老原喜之助、津田正周、永田一脩、横井礼市(礼以)らと交友を結ぶ。1929年、大森南千束町に転居。この頃、藤田嗣治の滞欧作展を見て東洋画の研究を始める。この間、応召出征。1937年、父の懇望をうけ郷里・四日市市に帰り、飯田病院理事長となる。一方、制作は続け、地方の青年画家たちの指導にあたり、また、市美術展から強い誘いを受けて数回にわたり賛助出品した。1952年、父、死去。病院の経営にあたりながら、再度上京して制作する夢を持ち続けた。1965年、胃癌のため病没。1967年、銀座・みゆき画廊で遺作展開催。画集に門脇義一郎編『飯田三吾遺作集』(三彩社、1968年)がある。また、三重県立美術館に素描を中心とする数多くのコレクションがある。


参考文献:
図録『大正新興美術の息吹 アクション展』(朝日新聞社、1989年)
  1. 2012/11/27(火) 09:00:00|
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吉田卓

吉田卓(よしだ・たかし) 1897年8月21日〜1929年2月25日

洋画家。広島県福山町(現・福山市)生まれ。旧制福山中学を中退し上京。正則中学を卒業。1920年頃、川端画学校、本郷洋画研究所に学び内田巌と親交を結ぶ。1922年、第9回二科展に出品し、初入選。以後、第15回展まで連続出品し、第13回展では佐伯祐三、林重義、木下義謙とともに二科賞を受賞する。1928年、二科会会友に推薦され、聖徳太子奉讃美術展委員にも任ぜられる。1929年、渡欧を計画し、後援会結成のため関西を旅行中、西宮で発病し、急逝。作品は戦災で焼失または散逸し、近代美術史上から名前は消えていた。ところが1965年頃、洋画コレクターの梅野隆が大正・昭和初期の雑誌『アトリエ』などをひもとくうち、偶然吉田の図版に触れ、その優れた芸術性に一目惚れした。それ以来、梅野は吉田の作品を求めて尋ね歩き、1985年、「吉田卓 その浪漫の光芒」(美術研究藝林)を開催するまでにこぎつけた。そして1991年、「吉田卓展 大正モダンを駆け抜けた画家」(ふくやま美術館)が開催され、その芸術の全貌が紹介された。1927年、新宿紀伊國屋ギャラリーにて林重義、古賀春江と小品展を開催する(註1)。


(註1) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.185

参考文献:
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
『北御牧村立梅野記念絵画館―父子二代にわたる眼の軌跡―』(北御牧村立梅野記念絵画館、1998年)

参考ウェブ資料:
「誠之館人物誌 吉田卓」(福山誠之館同窓会) http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/yoshida-takashi/yoshida-takashi.htm
「大正モダンを駆け抜けた画家、吉田卓と森谷均の若き日の交流」(「高橋輝次の古書往来」第54回) http://www.sogensha.co.jp/page03/a_rensai/kosho/kosho54a.html
  1. 2012/11/25(日) 06:00:00|
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中村正常

中村正常(なかむら・まさつね) 1901年11月6日〜1981年11月6日

小説家、劇作家。東京都小石川生まれ。妻は築地小劇場の女優だった中村チエコで、長女は女優の中村メイコ。旧制第七高等学校を中退。18歳の時に雑誌『婦人公論』に「女はいつも泣いてゐろ」(1幕)が投稿・掲載されている。1927年頃、一時、『麒麟』の同人となるが、その後、岸田國士に師事。岸田が編集・発行する第一次『悲劇喜劇』の編集に携わる。同雑誌創刊号(1928年10月)の戯曲「赤蟻」で実質的な文壇・劇壇デビューを果たす。1929年5月、『改造』の第2回懸賞に戯曲「マカロニ」が当選して一躍注目される。同年末、左翼色の強い「心座」から脱退した池谷信三郎、舟橋聖一、今日出海らと「蝙蝠座」を旗揚げする。1930年、反マルクス主義を掲げる「新興芸術派倶楽部」に参加し、龍胆寺雄、吉行エイスケ、久野豊彦らとともに新興芸術派の代表的作家となる。また、同派の中では井伏鱒二とともにナンセンス文学の旗手として知られていた。この時期の作品に『ボア吉の求婚』(新潮社、1930年)、『隕石の寝床』(改造社、1930年)などがある。新興芸術派退潮後も『二人で見た夢』(春陽堂書店、1937年)などのユーモア小説を書き続けるが、太平洋戦争中に軍国主義に引きずられていく文壇に反発して筆を折った。1930年6月に築地小劇場で上演された蝙蝠座第1回公演 『ルル子』(7幕15場)の第1幕「『馬鹿の標本』座談会」の台本を中村が、舞台装置を古賀春江が担当。また、「人造人間ロボット氏訪問記」(『改造』1931年3月号)の挿絵を古賀が担当。


参考ウェブ資料:
中野正昭「蝙蝠座―演劇と昭和モダニズム―」(『文学研究論集』11号 pp.119-137、1999年) https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/7310/1/bungakuronshu_11_(119).pdf
小林真二「《ナンセンス文学》の様相―中村正常を中心に―」(『文藝言語研究 文藝篇』34号 pp.154(19)-129(44)、1998年) http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dlimage/image;jsessionid=eda90f6ca17e25fbd4725aefb0f0?issueid=334439&tocid=100006589&pageseq=5&style=inline
  1. 2012/11/22(木) 00:00:00|
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坂宗一

坂宗一(さか・そういち) 1902年5月23日〜1990年4月9日

洋画家。福岡県犬塚村(現・三潴町)生まれ。小学校卒業後、1919年、上京。坂本繁二郎に師事。この頃、川端画学校で素描を学ぶ。それ以外はほぼ独学で、坂本らに制作を見てもらっていた。1922年、実家の破産により帰郷。同年、第7回来目会展に初出品。1923年、久留米の松田諦晶宅で古賀春江に初めて会い、以後、兄事する。1929年、第16回二科展に初入選。1927年頃から1933年頃まで朝鮮や満州、東京などを転々とする放浪生活を送った後、古賀の死を契機に筑後に帰り、定住した。1934年、福岡日日新聞に連載小説「大友宗麟」(田中純作)の挿絵を描く。1941年、二科会会友。1947年、二紀会創立に参加。1960年、二紀会委員。後に名誉委員。1970年、インド、ネパールを旅行。1972年、ネパール、ヒマラヤを旅行。少年時の心象風景を思わせるようなユーモアとポエジーの漂う作風に特色があり、晩年手掛けた水墨画も高い評価を得た。坂本亡き後の九州洋画壇の長老として活躍。1990年、福岡県三輪町で死去。古賀の超現実主義絵画の制作の手助けをした。古賀は坂に『子供の化学』という雑誌を古本屋で買い集めてもらって、その中から関連なく写真や絵図を切り取って組み合わせることでモンタージュ技法を試みたのである(註1)。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註2)。


(註1) 中野嘉一『古賀春江 芸術と病理(パトグラフィ叢書11)』(金剛出版、1977年)p.209
(註2) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187

参考文献:
『青木繁・坂本繁二郎生誕120年記念 筑後洋画の系譜』(石橋美術館、2002年)

参考資料:
坂宗一WEB美術館」 http://www.saka-sou-ichi.com/
  1. 2012/11/20(火) 09:00:00|
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高田力蔵

高田力蔵(たかだ・りきぞう) 1900年10月18日〜1992年10月31日

洋画家。福岡県久留米市生まれ。1916年、画家を目指して上京。本郷洋画研究所に通う。1920年、父の死で久留米に戻る。この年の秋、古賀春江を知る。1922年、第6回来目会展に出品。以後、1941年の第33回展までほぼ毎回出品。同年秋、再び上京。小学校の図画教員を務めるかたわら川端画学校に学び、石井柏亭に師事。アルベール・マルケに私淑する。1926年、日本水彩画会会員。1927年、第14回二科展に初入選。以後、1936年の第23回展まで連続入選。1930年の第17回展以降、古賀に触発されて超現実主義絵画を志向し、古賀の没後もその寓意的な画風を受け継ぐ。1936年、ベルリン・オリンピック芸術競技で銅賞。1937年、ブリヂストン創業者の石橋正二郎からアングル《泉》(ルーヴル美術館)の模写制作の依頼を受けたことをきっかけに模写を始める。同年、渡仏。パリのアカデミー・グランショミエールに学びながら、ルーヴル美術館で模写に取り組み、油絵の古典技法を研究する。これを契機に画風が前衛から古典へと一変。1938年、「パリ日本美術家展」で日本大使館奨励賞受賞。1939年、第二次世界大戦勃発のため帰国。1940年、滞欧作を発表し、春陽会会員に推挙される。太平洋戦争による戦災でアトリエと戦前期の前衛的な作品を消失する。1945年から大分県の九重山、飯田高原の連作を開始。また、1958年からは皇居周辺の風景画の連作を開始する。これらは西洋絵画の模写と並ぶライフワークとなった。1931年に古賀の自宅で知り合って以来、ノーベル賞作家・川端康成とも親交があり、高田の九重の絵に感銘を受けた川端は1952年と1953年の2回にわたり九重を来訪してその美しい景観に心を引かれ、九重を舞台にした小説『波千鳥』を発表している。1958年以来、日本橋三越でたびたび個展を開催。1965年、再び渡仏してルーヴル美術館で模写するとともに、ジャック・マレシャルに油彩修復技術を学ぶ。以後も模写への情熱は冷めることはなく、1972年、1974年、1977年、1979年、1981年、1982年の計8回渡仏を果たす。また、1971年には仙台市の委嘱でイタリアに渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある《支倉常長画像》を模写する。1990年、長年にわたり描き続けた模写作品21点を東京・北区に寄贈。1992年、東京で死去。古賀の没後の1934年、一周忌追悼会(上野・揚出し)に参加(註1)。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註2)。1953年、二十一回忌追悼会(上野・春性院)の世話人となる(註3)。1955年に発足した「古賀春江同好会」に名を連ねる(註4)。


(註1) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.89
(註2) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187
(註3) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.90
(註4) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187

参考文献:
図録『日本のシュールレアリスム 1925〜1945』(名古屋市美術館、1990年)
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
『青木繁・坂本繁二郎生誕120年記念 筑後洋画の系譜』(石橋美術館、2002年)
『地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画』(東京国立近代美術館、2003年)
  1. 2012/11/18(日) 06:00:00|
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赤城泰舒

赤城泰舒(あかぎ・やすのぶ) 1889年6月20日〜1955年1月31日

水彩画家。静岡県駿東郡生まれ。1904年、静岡中学を病気で中退し、葉山に転地療養する。この頃、大下藤次郎主宰の雑誌『みづゑ』に影響を受け、水彩画を始める。1906年、大下藤次郎の内弟子となり、太平洋画会研究所、水彩画講習所、日本水彩画会研究所に学ぶ。1909年、第3回文展に初入選。以後文展、帝展、新文展、二科展、光風会展に出品。1911年、大下の没後、『みづゑ』の編集に当たる。1913年、日本水彩画会の創立に参加。1918年、光風会会員。1921年、文化学院創立に際し、絵画科を担当。1942年、女子美術専門学校講師となる。1943年、新文展の審査員となる。戦後は日展に出品。明るい色調の平明な水彩画を描き、美術教育にも尽くした。1955年、脳出血のため東京都新宿区で死去。著書に『水絵の手ほどき』(博文館、1929年)などがある。古賀春江との出会いは1913年、古賀が日本水彩画会研究所に入所した頃で、その後、親交が深まり、1926年には古賀、小山周次らと「水絵連盟」を組織した。古賀没後の1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註1)。


(註1) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187
  1. 2012/11/16(金) 21:00:00|
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阿部金剛

阿部金剛(あべ・こんごう) 1900年6月26日〜1968年11月20日

洋画家。岩手県盛岡市生まれ。父は東京府知事を務めた阿部浩。東京府立第一中学校を経て、1924年、慶應義塾大学文学部予科中退。在学中から岡田三郎助に師事。1926〜27年渡仏。アカデミー・ランソン、アカデミー・ジュリアンに学び、ビッシェールに師事する。また、藤田嗣治、キスリングらの影響を受け、東郷青児と交友を結ぶ。帰国後の1928年末か翌年初めに、東郷を介して古賀春江と知り合う。1929年1月、「東郷青児・阿部金剛油絵小品展」(新宿・紀伊國屋画廊)開催。同年9月、第16回二科展に青と白を主調色とした都会的な感覚による理知的な作品《Rien》のシリーズを出品して、古賀、東郷とともに同展の超現実主義傾向の代表的画家となり、「モダン・ボーイ」と呼ばれた。この《Rien》シリーズは、前衛詩人・竹中久七が主宰する詩誌『リアン』創刊のきっかけとなった(この関係から阿部は『リアン』第2集から第7集まで装幀・挿絵などで参加)。1930年、三宅艶子(後に評論家)と結婚(後に離婚)。同年、日本水彩画会会員に推挙。1931年、『阿部金剛画集』(第一書房、1931年)刊行。1933年5月頃、古賀、東郷、峰岸義一の3名と日本で最初の前衛美術を標榜した洋画研究所となる「アヴァンガルド洋画研究所」の開設を協議。古賀の没後、同年9月頃に開設された。1938年、二科会の若手前衛画家グループ・九室会に参加。1942年、二科会会友。太平洋戦争により戦前期の作品の大半が失われる。1947年、二科会会員。以後、東郷らと二科会の中心的存在となる。戦後は抽象的な作風に移行する。1960〜67年、メキシコ、アメリカに滞在。著書に『シュールレアリズム絵画論(新芸術論システム)』(天人社、1930年)。また、萩原朔太郎『詩人の使命』(第一書房、1938年)など、数多くの著名作家の著書の装幀を行う。大谷省吾編『阿部金剛・イリュージョンの歩行者(コレクション・日本シュールレアリスム10)』(本の友社、1999年)に詳しい。古賀の没後の1934年、一周忌追悼会(上野・揚出し)に参加(註1)。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註2)。1953年、二十一回忌追悼会(上野・春性院)に参加(註3)。


(註1) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.89
(註2) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187
(註3) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.90

参考文献:
図録『日本のシュールレアリスム 1925〜1945』(名古屋市美術館、1990年)
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
図録『TOHOKU/TOKYO 1925−1945』(読売新聞社、2000年)
速水豊『シュルレアリスム絵画と日本 イメージの受容と創造』(NHKブックス、2009年)

参考資料:
「名画発見!その5 阿部金剛《旅愁》SM 1936 平園賢一」(梅野記念絵画館) http://www.umenokinen.com/backnumber/html/gadan_gadan/no6/no6_hirazono.html
  1. 2012/11/15(木) 00:00:00|
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小山周次

小山周次(こやま・しゅうじ) 1885年6月27日〜1967年12月18日

水彩画家。長野県生まれ。小諸高等小学校卒業後、1900年、小諸義塾に進学。木村熊二、島崎藤村に学ぶ。美術教師の三宅克己に触発されて画家を志す。1902年、丸山晩霞の内弟子となる。1910年頃、上京。太平洋画会研究所や日本水彩画会研究所で学び、赤城泰舒、水野以文などの友人を得る。1913年、日本水彩画会の創立に参加。1923〜24年、欧米に留学。帰国後は成城学園高等科で18年にわたり美術教師を務めたほか、大正、昭和期の水彩画に新風を吹き込んだ「蒼原会」の指導者としても活躍。蒼原会のリーダー的存在で、のちに日本水彩画会の指導者となる中西利雄や小山良修ら、多くの画家を育てた。二科会の事務をも担当。また、内村鑑三との出会いから、敬虔なクリスチャンとしての一面があり、晩年は数多くの宗教画を残した。1951年、日本水彩画会名誉会員。著書に『小諸義塾と木村熊二先生』(木村先生記念碑事務所、1936年)など。古賀春江との出会いは1913年、古賀が日本水彩画会研究所に入所した時で、その後、親交が深まり、1926年には赤城泰舒らとともに「水絵連盟」を組織する。没後に刊行された詩画集『古賀春江』(春鳥会、1934年)に回想を寄稿。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註1)。


(註1) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187
  1. 2012/11/07(水) 09:00:00|
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峰岸義一

峰岸義一(みねぎし・ぎいち) 1900年〜1985年3月27日

洋画家、水墨画家。画号・魏山人。埼玉県生まれ。1925年、日本美術学校卒業。三科に出品。単位三科の会員となる。1928年、渋谷修らと「主情派美術会」を結成、同年9月に第1回展を開く。1929年5月、第2回展を開催。同年9月、渋谷、玉村方久斗と「カメレオニズム展」を開催。同年12月、渡欧(主情派美術会は解散)。パリでピカソとの知遇を得る。この時、ピカソは峰岸に、日本にはせっかく水墨画の伝統があるのに、なぜそれを捨てて顧みないのかと疑問を投げかけた。また、西洋に来て絵を学んで日本に帰るだけで画家になったつもりになる風潮を批判した。峰岸は「前衛水墨画」の実現を約束した。その代わり、ピカソに当時のフランス前衛美術の作品を日本に招来する約束をさせた(註1)。1930年、帰国。渋谷、山名文夫、山六郎、竹中英太郎らと「新興浪漫派」を結成するが、第1回展を開催しただけで解散する。1932年、日本で初めてフランス前衛美術を一挙に紹介した「巴里東京新興美術展」を招来。1933年、第20回二科展に《SAVONの過去》を発表して、古賀春江、東郷青児、阿部金剛とともに二科会における超現実主義傾向の代表的画家となる。同年5月頃より前記3名と日本で最初の前衛美術を標榜した洋画研究所となる「アヴァンガルド洋画研究所」の開設を協議。古賀の没後、同年9月頃に開設された。1938年、二科会内の若手前衛画家グループ「九室会」の発起人となる。1941年、二科会会員。太平洋戦争中、空襲でアトリエが爆撃され、戦前期の油彩の大半を消失する。これを契機に水墨画に本格的に取り組むこととなった(註2)。また、洋画の方では後年は抽象的な作風へと移行した。1948年、二紀会会員。後に名誉会員。1954年、中川紀元、津田青楓、小川千甕、棟方志功、近藤浩一路、水越松南らと日本水墨派展を日本橋三越で開催。1965年、「墨の国展」を日本橋東急で開催。美術関係の著書に『聊斎志異絵巻』全3巻(美術出版社、1962〜65年)、『墨絵入門』(実業之日本社、1970年)、『魏山人大画冊』(実業之日本社、1976年)などがある。また、『丁半』(朱雀社、1958年)、『女太平記』(総合企画、1963年)などの小説や『お好み青色申告』(美和書院、1956年)などのポルノエッセイも上梓している。


(註1) 峯岸魏山人『墨絵入門』(実業之日本社、1970年)pp.20-21
(註2) 峯岸魏山人『墨絵入門』(実業之日本社、1970年)p.22

参考文献:
『原色明治百年美術館』(朝日新聞社、1967年)
峯岸魏山人『墨絵入門』(実業之日本社、1970年)
図録『日本のシュールレアリスム 1925〜1945』(名古屋市美術館、1990年)
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
市道和豊『渋谷修 アバンギャルドから消された男』(室町書房、2011年)
  1. 2012/11/03(土) 18:00:00|
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