古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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図版の掲載許可を得るための交渉をした際に受けた不快な応対

2011年9月上旬、古賀春江《船着場》(水彩、1926年)の図版の掲載許可を得るためにパーフェクトリバティー教団(PL教団)に問い合わせをした際、数日間かけてブログの全ページを調べられた後に(アクセス解析で確認しました。)掲載不可を言い渡された上、理由を尋ねてもまともに答えてくれないという非常に不快な応対を受けました。新興宗教らしい非常に閉鎖的な応対で閉口しました。古賀春江《埋葬》(油彩、1922年)の図版の掲載許可を求めて知恩院(浄土宗)に問い合わせをした時にはそのようなことはありませんでした。ただ、掲載不可を言い渡されても「限定公開」(図版を閲覧したい人のみにパスワードを教えて閲覧を許可する)という形で公開はできるので(この場合、グーグルの検索エンジンに画像がインデックスされることはありませんので、PL教団側にとっても不都合はありません。)それ以上の交渉はしませんでしたが。また、古賀春江《赤い風景》(水彩、1926年)の図版の掲載許可を求めて福島県立美術館に問い合わせをした際にも、堀宜雄氏という学芸員からあまり感じの良くない応対をされました。メールを転載しないようにと言われたので、ここでは内容については書きませんが。
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  1. 2013/09/18(水) 11:00:00|
  2. 雑記
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大橋巨泉

大橋巨泉(おおはし・きょせん) 1934年3月22日〜

司会者、評論家。東京・両国生まれ。本名・大橋克巳。[著名な人物につき、プロフィールのうち古賀春江と関係の無い部分を省略致しました。お知りになりたい方は各種人物事典を御参照下さい。]巨泉が西洋美術に目覚めたのはセミリタイア後の1999年、結婚30周年記念のイベリア半島旅行の時で、スペインには好きなゴルフ場も少なく、競馬場も無かった為、仕方無く観光案内書に大きく載っていたプラド美術館に立ち寄ることにした。その前に畏友・石坂浩二にプラドに行ったらどうすればよいかと相談したところ、「本物をじっくり見ることだけです。」というアドバイスを受けたそうである。殆ど予備知識もなしにプラド美術館を訪れた巨泉夫妻は数時間後に出てきた時にはすっかり西洋美術の虜になっていた。最初に心を奪われた絵はロヒール・ファン・デル・ウェイデンの《十字架降下》で、その構図、表情、色彩の効果に打たれ、絵の前から20分程動けなかった。その後、ベラスケスやゴヤに打ちのめされた。それ以来、毎年5月〜6月頃、欧米の著名美術館に出掛けて名画を鑑賞し、また、西洋美術の研究書を耽読して(英語が堪能なので原書を含めてだろうが)研究している。また、「美の巨人たち」(テレビ東京系)は東京の事務所から録画してVTRを送ってもらい、毎回欠かさず観ている。その成果は『大橋巨泉の美術鑑賞ノート』全5巻(ダイヤモンド社、2008年〜12年)に示されている。『パリ・マドリード二都物語 名画とグルメとワインの旅』(講談社、2005年)でピカソ《浴女たち》(1918年)について「もしかすると日本で謎の絵とされる、古賀春江の「海」に影響を与えた作品かも知れぬ。」と述べている(註1)。


(註1) 大橋巨泉『パリ・マドリード二都物語 名画とグルメとワインの旅』(講談社、2005年)p.101

参考文献:
大橋巨泉『大橋巨泉の超シロウト的美術鑑賞ノート』(ダイヤモンド社、2008年)
  1. 2013/09/17(火) 17:00:00|
  2. 人物事典
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古賀好江

古賀好江(こが・よしえ) 1895年〜1949年1月18日

古賀春江夫人。旧姓・岡。福岡県久留米市出身。古賀と知り合う前に離婚歴あり。文学好きの女性として久留米では知られていた。1915年、久留米の音楽愛好家が集まっていた松田諦晶宅で古賀と知り合う。やがて恋愛に発展し、1916年11月、古賀の後を追い上京。巣鴨町宮仲(現・豊島区東池袋)の魚屋の二階を借りて同棲を始める。当初、2人の結婚は双方の家で反対されていたようで、彼らが式を挙げ、披露を行なったのは1920年1月のことである(郷里・久留米で、媒酌人は旧友・佐野年一)。しかし、婚姻届は出されずじまいであった。この年、妊娠するが、1921年1月、流産。結局、古賀夫妻の間には生涯子供は生まれなかった。好江は古賀より四ヶ月程年上で、気性の勝った、いわゆる姉さん女房型の女性であったといわれる。彼女の内助の功は大きく、経済的には無能に等しかった古賀に代わってモデル業をするなどして家計を支え、しかも数々の古賀の女性問題にも耐え忍び、ひたすら古賀の画家としての大成に尽くしている。好江なくしてはおそらく古賀の生活も、画家としての成長もありえなかったとさえいわれている。古賀没後の1934年9月、今日では古賀研究の唯一の底本となっている詩画集『古賀春江』(春鳥会、1934年)の刊行に尽力。1938年7月、ジャーナリストの坂口二郎と再婚。再婚生活は、子供のようだった古賀の面倒を見る苦労も無くなったし、経済的にも恵まれて大変幸福であったといわれている。再婚後は東京・渋谷に住んでいたが、戦災で久留米に疎開。戦後の1947年、古賀の姉・シヅが死去して古賀家が断絶した際、生家の善福寺にあった古賀の遺作が心なき人たちによって四散したが、好江は既に他家の人間だったので同じ市内に住んでいたにもかかわらず関与することができなかった。


参考文献:
古川智次編『近代の美術 第36号 古賀春江』(至文堂、1976年)
寺内大吉「寂滅為楽の芸術」 『藝術浄土』2号(1976年4月)pp.83-88
中野嘉一『古賀春江 芸術と病理(パトグラフィ叢書11)』(金剛出版、1977年)


最終加筆:2013年9月16日
  1. 2013/09/16(月) 19:00:00|
  2. 人物事典
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高松茂

高松茂 生年未詳〜1951年

実業家。福岡県出身。北原白秋とは夫人を通じて縁戚に当たる。旧・三池銀行(本店・大牟田)に勤務。後に上京。1923年から東京・四谷で菓子製造業を営む。この頃から坂本繁二郎、山本鼎、南薫造、石井柏亭、中川紀元、中川一政、岡本一平、富本憲吉らと親交を結び、数多くの画人たちが高松家の夕餉に列してさながら梁山泊の観を呈していたという(日本橋三越に出していた菓子箱の表紙を一流画家にデザインさせたというエピソードもある)。古賀春江との交友もこの頃に始まる。古賀の没後、好江夫人が同郷の坂口二郎と再婚することになるのも坂口の弟が三池銀行時代の高松と知己だったという縁による。1955年に高松の長男・高松太郎の名で東京国立近代美術館に寄贈された古賀の数多くの絵画作品及び資料は1947、48年頃、好江夫人から高松に寄贈されたもので、古賀との苦難に満ちた生活の後、幸福な再婚生活に恵まれたことなど様々な恩誼に報いる意味と、戦災で絵画コレクションを失って悲嘆にくれていた高松を慰める意味とがあった。それらとは別に高松家には古賀の遺したスケッチブック・ノートを含む大量の美術資料が戦後長いこと保管されており、これらは後に石橋美術館に寄贈された。


参考文献:
阿部良雄「未発表の古賀春江―青春のスケッチブック」 『芸術新潮』28巻6号(1977年6月)pp.88-96
  1. 2013/09/16(月) 00:00:00|
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