古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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古賀好江

古賀好江(こが・よしえ) 1895年〜1949年1月18日

古賀春江夫人。旧姓・岡。福岡県久留米市出身。古賀と知り合う前に離婚歴あり。文学好きの女性として久留米では知られていた。1915年、久留米の音楽愛好家が集まっていた松田諦晶宅で古賀と知り合う。やがて恋愛に発展し、1916年11月、古賀の後を追い上京。巣鴨町宮仲(現・豊島区東池袋)の魚屋の二階を借りて同棲を始める。当初、2人の結婚は双方の家で反対されていたようで、彼らが式を挙げ、披露を行なったのは1920年1月のことである(郷里・久留米で、媒酌人は旧友・佐野年一)。しかし、婚姻届は出されずじまいであった。この年、妊娠するが、1921年1月、流産。結局、古賀夫妻の間には生涯子供は生まれなかった。好江は古賀より四ヶ月程年上で、気性の勝った、いわゆる姉さん女房型の女性であったといわれる。彼女の内助の功は大きく、経済的には無能に等しかった古賀に代わってモデル業をするなどして家計を支え、しかも数々の古賀の女性問題にも耐え忍び、ひたすら古賀の画家としての大成に尽くしている。好江なくしてはおそらく古賀の生活も、画家としての成長もありえなかったとさえいわれている。古賀没後の1934年9月、今日では古賀研究の唯一の底本となっている詩画集『古賀春江』(春鳥会、1934年)の刊行に尽力。1938年7月、ジャーナリストの坂口二郎と再婚。再婚生活は、子供のようだった古賀の面倒を見る苦労も無くなったし、経済的にも恵まれて大変幸福であったといわれている。再婚後は東京・渋谷に住んでいたが、戦災で久留米に疎開。戦後の1947年、古賀の姉・シヅが死去して古賀家が断絶した際、生家の善福寺にあった古賀の遺作が心なき人たちによって四散したが、好江は既に他家の人間だったので同じ市内に住んでいたにもかかわらず関与することができなかった。


参考文献:
古川智次編『近代の美術 第36号 古賀春江』(至文堂、1976年)
寺内大吉「寂滅為楽の芸術」 『藝術浄土』2号(1976年4月)pp.83-88
中野嘉一『古賀春江 芸術と病理(パトグラフィ叢書11)』(金剛出版、1977年)


最終加筆:2013年9月16日
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  1. 2013/09/16(月) 19:00:00|
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高松茂

高松茂 生年未詳〜1951年

実業家。福岡県出身。北原白秋とは夫人を通じて縁戚に当たる。旧・三池銀行(本店・大牟田)に勤務。後に上京。1923年から東京・四谷で菓子製造業を営む。この頃から坂本繁二郎、山本鼎、南薫造、石井柏亭、中川紀元、中川一政、岡本一平、富本憲吉らと親交を結び、数多くの画人たちが高松家の夕餉に列してさながら梁山泊の観を呈していたという(日本橋三越に出していた菓子箱の表紙を一流画家にデザインさせたというエピソードもある)。古賀春江との交友もこの頃に始まる。古賀の没後、好江夫人が同郷の坂口二郎と再婚することになるのも坂口の弟が三池銀行時代の高松と知己だったという縁による。1955年に高松の長男・高松太郎の名で東京国立近代美術館に寄贈された古賀の数多くの絵画作品及び資料は1947、48年頃、好江夫人から高松に寄贈されたもので、古賀との苦難に満ちた生活の後、幸福な再婚生活に恵まれたことなど様々な恩誼に報いる意味と、戦災で絵画コレクションを失って悲嘆にくれていた高松を慰める意味とがあった。それらとは別に高松家には古賀の遺したスケッチブック・ノートを含む大量の美術資料が戦後長いこと保管されており、これらは後に石橋美術館に寄贈された。


参考文献:
阿部良雄「未発表の古賀春江―青春のスケッチブック」 『芸術新潮』28巻6号(1977年6月)pp.88-96
  1. 2013/09/16(月) 00:00:00|
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