古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

展覧会前景

   毎年の事ながら九月の声を聞くと急に各所に展覧会の花が咲く。先づ二科、院展を初めとして構造社、青
   龍社、曰く何、曰く何……而して今年はどんな作品が出るだらうとは興味のあることで、かつまた、展
   覧会見物の指針にもと、前以て一部の方にお伺ひしたところ、御返事を頂いたのは左の通り、先づ
                                             〔編集部〕

 昼間の人間は頭の半分で生きて居る。直線の鋪道に並木の葉、電車と自働車、洟をかむのは花屋であつちへ行きたい。ボンヤリした半分の風景の中で会話と手紙。眼が見えないのに車道を踏み切らねばならない。人の顔は真夜中の真暗な中でしか見えないものだ。手紙といふものを不思議に思はねばならないとは。画はどうしても夜の暗黒の中で描かねばうまく出来ない。燈下の下の画は半分のもの。昼間の画は噓。道は暗闇の中で辻になる。みんなの川が海に出るだらうか。
 秋は冷い海底で他人になる。
 今年も燈下の下で描いた画で半分の画です。花や鳥や貝殻のやうな形のものを塗りました。一〇〇号、八〇号、五〇号位。



初出:『美術新論』7巻9号(1932年9月)pp.54-55
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.222
スポンサーサイト
  1. 2013/12/27(金) 02:41:36|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

来目洋画展評

         (一)
 目下当地〔久留米市〕商業会議所楼上に於て開催中の第六回来目《らいもく》洋画展覧会出品画に就て、同人諸氏の委嘱を受け茲に禿筆を呵して批評感想の断片を披瀝する心算であるが、既に批評といふ立場に於てはその内容に要求的精神を多分に含むものであるから、多く私一個の、時としては全く作者諸氏の意嚮に反する主張をなすかも知れないが、それは芸術本来の精神の名に於て予め宥恕を乞ふて置き度いのである。
 先づ目録順に見て行く。第一は高田力蔵氏の作品六点である。陳腐と平凡とは芸術といふ言葉の最も広く深い意味に於て致命傷である。氏は賢くも此所に自覚を持ち旧来の写実の皮層を刎ね除けて自身の感情、神経に即して作画する道に行かうとしてゐるが、当然氏の素質の成長的方向であらう。「秋の光景」「慈母像」「監獄の裏」等より「闘鶏図」や「見世物」等に近代人の怪異な感情生活を見るのである。
 松田実氏。熾んなる生命の饗宴者、人類至上の価値に対する愛念を中軸として、氏自身の世界に高踏する荘厳なる殿堂の建設者その常生活に於て見るも、理想する所は、彼の文芸復興期の巨人達が希求したる如き一個の「完人」である美術に対して人生に就いて徹底せる理解を有するターレントである。其の類ひなく真摯にして質実なる追及と研鑚との痕は出品大小二十点の孰れに就いて見るも明らかである。然し画術は一の造型術であるから時に失敗と成功との感は誰れしも免れざる所であらう。「牛の子等」より「厨の一隅」を、またそれよりも「あざみの花」を採る。「すもゝの花」は妥協的な中間性の気弱い人間を圧倒するであらう。「夕栄ゆる野」「時雨の後」「落日」三点は私の最も愛する小品である、私は何等の私心を混ぜず、叡智の練磨が情熱と血と炎とを加へて契機を対象に借り乍らも対象を超えて喨々と響く喇叭の音の如き、この浪漫的な象徴詩を読まう。
 山田武氏。氏に対しては今の場合批評を遠慮したい。
 古賀三郎氏。「曇り日」「静物」に於ては相当に色も調子もついてゐる。他の四点皆一様に丁寧だが、画品が低いのは何故か、氏はこの点に一考を要するであらう。
 三嶋重雄氏。叮寧に微細に正直によく描いてある。然し美術はそれだけでは足りない。「初秋の朝」「枯野」採る。
 上野茂氏。油絵五点凡て器用である中「第三」「第四」を採る。画は勿論「造形」であるから真の意味の計画は必要であるが、それが血の出る程な体験の礎の上に建てられない場合、その計画は単なる計画としてのみ威を逞うして「美」を阻害する。意図する所は明らかに見え乍ら、惜しむ可きである。

         (二)
 小松清次郎氏。画法に就いて或る了解を持つてゐる、美感も善し技法も練達されて理解の透徹せる親切なる画面を作してゐる。三点ともに場中の佳作である。色彩にも筆触にも才気豊かであるが、一歩をあやまれば単なる外面上の趣味に終止して自らその才気に淫して安しとする自慰的邪境に陥る危険性を伴ふものである。
 執行輝彦氏。熱情と表現の大胆さに於て場中の異色である。霊感と専念に於てよく氏独特の美境を表現してゐる。その傍若無人な自己主張的態度には人をして気味悪るがらせる程のものがある。凡常の人間の理性を越えて直接「自然」と面々相接し、人をして芸術の超近代性、超階級性を十分に味得さするものである。旧派、新派は勿論、プロレタリアだのブルヂヨアだのと言ふ言葉が芸術の圏内に迄侵入して来てゐる今日、これは寔に超然として動ぜざる大山の如きものである。私は氏の資質に対して敬意を表すると同時にその不撓の精神を祈つて止まないものである。
 大塚進氏。物体を充分に客観的に如実に観察し表現しやうとする事は写実道の前衛である、而して最も進むに安全なる平坦な道である。今、正直に成心なく、氏は此の道を進めやうとしてゐる行く手に障害は有るまい。然し印象派が起つて所謂官学的写実派は倒壊された。然も─完全にそれは倒された、その因由は何所にあつたか? 贅言を要しまいと思ふ。
 金子恒三郎氏。五点の内「冬枯れ」「風景」を採る。殊に前者のほのかに暖い情調を愛する。「自画像」「戯作」は明らかに「戯作」である。
 上野和久氏。「自画像」「祇園の狗」は未完成である。これは三分の一の出来で仕事はこれからである。「八幡スケツチ」は善いが「画面」を考へずに文字を入れる事は悪るい。
 佐野敏一氏。「午後の櫨畑」「果物」「風景」を採るが惜しい事に色が足りない。「裸体」は氏の作中で一番努力も見え効果も勝れてゐる。殊に胸部は善い。氏には技巧もあり、実に「描けば描ける」のであるが「落日と群像」「山路」などの如き作は甚だ要領を得ない。色彩の相剋、対立、筆触の節奏、それ等は各々の目的の下に集注され支配され、帰順されてのみ色彩であり筆触である可きだ。間々美しき色の隠顕する所もあるが、其れ等も殆ど偶然の成果以上には観えない。美術の法則が厳として例外なく示す如く、こゝには偶然といふ事は一つも許されない。纒りのない歓喜から熱狂的興奮に入つた作としても今少し自由な、それ故に必然な、流動性が見えるであらう。感激のない堕性は動《やや》もすれば偶然を恃むさもしい射倖心への導火線となる。然し私は氏に対し多くを言ふ必要はあるまい。人としての清明正直、或る場合には童心そのまゝの氏は、何も彼も心奥深く了解してゐる筈だ。たゞ茲では聡慧なるその反省を願つておくのみである。
 松田尚鉄氏。二点共に充分の力は見えるが、力が孤立して殆ど「腕力」の如き観がある。美術の本体が微弱だからである。私は嘗て見た「籐椅子に腰掛けてゐる人」を好む。

         (三)
 牛嶋磐雄氏。「壺と林檎」は観者に迫る力を持つてゐるが、その味を今少し狭深に、積極的に表したならば一層の効果を挙げ得たであらう。「春ちやん」にもその味識の柔弱さがある。「はとやの花」よりも「松を透して」を採る。前者は色調に於て失敗してゐるが後者は色も塊も面白い。知解の〔#「知解」に「ママ」の注記〕ある画である。
 古川潤二氏。近来廃れたが、一時「無技巧の技巧」といふ言葉が流行した。云ふ意味は「稚拙の勝利」といふ事である。「稚拙なるが故に」ではなく「稚拙でも」の意であらう。古川氏の作に今この言葉を借りて来る。実に格好である。演繹は省くが、充り〔#「充」に「ママ」の注記〕児童自由画と相共通する質の言葉である。氏は只管《ただ》無心に描いてゐる。青い葉を青く画面の隅から隅まで描いて行く。完全に青く、青くと。近景の山芋畑を越して遠景の森の上に浮く白い雲、人家が淋しく其所にある。これで立派に「画」を作つてゐる。画品も高く味感も充分に有る。「こいぬ」の「動物」が黒い背景の中から明らかに見える。「桜草」にも「草花」が其所に在る。「もみじの芽立」は可憐に美しく、鉢の中から椿の様に立つて無心に赤い葉を光らしてゐる。総体に静かに淋しく少し憂欝に美しく、ありのまゝに表現されてゐるのである。私は其所に心を牽かれる、が同時に又不安なきを得ないのである。何となればこれ等の作品の長所は「その技法の幼稚なるが故に」といふ一事に保留されてゐるものであるからである。而してその幼稚はやがて何時の日か破壊されるであらう。これは画技の歴程に於て当然考へられるべき事である。故に現在の長所は、やがてそれ自身短所となるべき性質を具有する。即ち未来の作品に就いての承知せらるべき破壊の推想を携へての特質だからである。然らば如何なる方面に進路を取れば善いかと考へるに、これは作者自身「自らの拙さの自覚」を持つべきである。この一方を捨てゝ顧みないならば、その道は行き抜けの出来ない袋小路である。然し今は現在は、この儘にて氏として最上であり唯一であるであらう。

         (四)
 然し何時かは氏自身に痛ましい芸術的破綻が生ずるであらう。然しそれは氏にとつて真に慶賀すべき悲劇である。私は愛する氏自身の健闘を祈つて止まないのである。
 太田寛氏。器用な技巧を持ち乍ら、惜むらくは古臭く因襲的で、自然の溌剌生々の気を欠く。見る事、感ずる事、その感関に〔#「関」の横に「官」〕皮覆を〔#「皮」の横に「被」〕被せて外囲の刺戟を遮蔽し安易な受用生活の独善主義は私達の忌むべき事でないであらうか。それは魂の鏡を曇らし、健康と青春の薔薇を酸の如くに蝕む毒汁である。一考を促して勇敢なる飛躍を希ふ。
 国武史郎氏。油絵「秋の山」を採り度い。氏の最も初期の作と聞くが純朴なる制作態度と細心の注意とが、この作の画的効果を挙げたのである。墨画「夏の山」は余りに「墨画」である。
 豊田勝秋氏。ブロンズ花壺はその余りに弱々しく感傷的である事と悪るい趣味はその身振りが少しお芝居じみてゐる事である。
 以上で概略作品の感想を終つたが、最後に私達の展覧会の意味に就て、久留米全市民諸氏に一言述べて相互の理解を深めるの資に供したいと思惟するものであります。
 私達は自身作品の展覧会に依つて、その日常生活に於ける審美的体験の表明を期して、私達自身、及び一般観覧の諸君と共に、各人内心の美意識を高め、純情一心に縁る互の愛念の獲得厚深に努めたいと思ふものであります。出来得べくば美術の内抱する人間美に信頼し、完全なるその感情移入によつて、深く高く生活の実現を理想してゐるより外に亦多くを望むものではありません。
 とりもなほさず、美術は一の宗教であります。私達は一意専心、自然の意志を意志として私達の生活方向を定めたいと覚悟するものでありますから、時に偏狭なる一部の思想と相容れざる観無きにしもあらずでせうが、それは私達各自の向上により時を待つて親善融和さるべきものと信ずるのであります。展覧会も今は最も微力なる生活習作の制作でありますが、諸君もその点特に寛大と理解とに基いて、私達の意の存する所を擁護扶養して頂きたいのであります。
 右の来目洋画会の一員として、本会の隆興成長を祈ると共に、諸君に一言お願ひしておく次第であります。



初出:『筑後新聞』1922年5月
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.230-236
  1. 2013/12/27(金) 02:39:23|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

春展寸感

    第三回春陽会展覧会に就ての短い御感想を諸家に希ひまして、御返事を頂けました分を掲載いたしました。
    掲載外の御返事は展覧会に関りないのは割愛いたしました。諸氏の御好意を深謝いたします。(記者)

 大体に共通したものがあると思ひます。
 構図──平な画面の三分の一を切る線。その上に果物や花を小さく置く。
 色──ヤニ色の中に僅かな鮮色。
 それはたしかに一つの味があるのでせう。しかしそれのみを繰り返すのは偏狭です。
 斎藤徳三郎氏、小林和作氏、三岸好太郎氏、坂口右左視氏の作はそれ/″\作家の稟性を窺はれる善作だと思ひます。
 木村荘八氏、河野通勢氏は珍らしい作家です。岸田劉生氏は少しは粗末になり相変わらず不気味です。横堀角次郎氏は少しいぢけた気味はないでせうか。久泉共三氏のは少し締りが足りないやうです。中で万鉄五郎氏の作こそ実に愉快な素晴らしいものだと思ひます。



初出:『アトリヱ』2巻4号(1925年4月)pp.48-49
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.242
  1. 2013/12/27(金) 02:38:21|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

仏蘭西現代美術展覧会を観る

 こゝに書くのは展覧会出品の各作品の批評や評論ではありません。私が会場を一順して得たほんの印象記です。従つて何等の連絡も纒りもあるものではありません。最初は可成一一の作品を丁寧に観て行きましたが余りに数が多いので終ひには疲れて眼に止まるものだけに足を止めました。そういふ風なので個々の作品に就いては見落しや見誤りがあることと思ひます。まづ正面の大きな室から入りました。
 ローランサンのものが二点あるのは嬉しいことです。色彩の淡々しい調子と、人物の形態、とぎれ/\に行く背景等匂の高い夢幻境にやさしい女性の魅力を力強く思はせます。「放縦《ほうじゆう》」といふ作より、黒白薄桃色、わづかのコバルトで階調の優れた「提琴弾く女」を好みます。
 デランの前に立つて私は驚きました。何がこゝまで私を強く打つのか! 単純な色彩と無造作な構図──筆触。しかし其の効果は私達の美に憧れる魂を充分に捉へて終ふものです。「白き壺」「オレンヂとパンと白壺」の二点は私の最も好きなものです。卓上の白い壺がニユートラルチントの線で輪郭され、赤褐の机とセピヤ色の背景暗緑の幕、凡て黝んだ調子の中から素晴らしい力が容赦なく観者を叩きつけます。今度の六百点近い作品の中で一番私を魅したものに違ひありません。
 デユフイの三点は元気で大胆な画面を作つて居ます。ヘナヘナの情緒主義などまるで一堪りも〔#「堪」の横に「溜」〕なく吹き飛ばされて終ひます。「入日」といふ真青な丘の家の群と海と朱の太陽とが一見粗暴とも思はれる位に自由に奔放に描けて居ます。こういふ作は日本の画壇には仲々見当たらないものです。
 ピカル・ル・ヅウのでは五十号位の婦人像が一寸好い様に思ひました。背景の灰黒と人物の白い着物、殊に手の描写はいゝと思ひます。風景の諸作は色彩の華麗な割に弱々しいものですが「窓際の女」といふ小品は好かつたと思ひます。室内の桃色の壁と暖い白黄色の外景と、窓際に腰かけた女の赤い上着オルトラマリンのスカート、仲々奇麗に手際よく出来てゐます。
 オツトマンには閉口しました。下らない画面の趣味などがある為めに、そしてそれを相等に描出する器用さがあるためにこの人の画は嫌気がさします。風船を挙げてゐる女の大作など愚劣極まるものと思ひます。
 ルパスク、マンギヤン、この人達は印象派の光線などにとらはれて少し不自由してゐます。後者の大作「足そゝぐ女」は失敗の作でせう。「花」はいゝと思ひます。
 オルテイスといふ人のは盛に太い黒線を用ゐて物象を締めくゝつてありますがその割に力がありません。
 アスランのものでは「アネモネとデージー」といふ小品を挙げたいと思ひます。この作者のものは油絵よりも水彩にいゝ味感を感じます。「堤」「小舟」「コンカルノオ」など、それ/″\簡約された細線の中に淡彩を施した静かな作です。
 それから水彩画の室ですが凡て自由な暢々した気持で描かれてあるのは日本の水彩画展覧会の空気と可なり違つたものです。中には随分まづい作品もあるやうに見えましたが、水彩と云はず油絵と云はず、総じて腹の底からの自由さで各作家が銘々の仕事をしてゐる事は矢張り大きな底の知れない晴々しさを与えます。
 ブラマンクの水彩は油絵と同じく随分達者に元気で色彩も強く好い効果を挙げてゐます。
 デスパニヤの作は奇麗で可愛く、トリユフオはボデイカラになりそうでゐて重々しい感じから切り抜けてゐます。市街の雑鬧を描いた「巴里ロアイエル街」はうまいものです。
 シニヤツクの水彩は一一の色が美しくてバラ/\のやうですが画面の落ち付きがあつていゝものです。
 ルドンの作品は不思議な感銘を与えるものです。画面構成の意識が表面に出ないで感情が深い所から私達に話しかけます。それは甚だ時とすると独りよがりの独語ですがそれに耳をかさないで通り過ぎる事は出来ません。それはむしろ摑み所のない断片的な空想ですが細く鋭いその内容の力が直接私達の魂に囁きます。
 ラプラードは思つてゐたよりずつとよかつたので驚きました。油も水彩も共に好きです。水彩の「花つむ子供等」や「ポプラ」の小品は殊に淡淡しい感じの風景で淋しく一味の哀感を湛えてゐます。油の小品「ユー島」は開かれたる扉の室内から海と前景に船の帆を出したもので無造作の中にいゝ味ひを感じさせます。色彩は凡て不透明でやゝもすると余りに孱弱《かよは》い筆ですがその中から涼しい爽やかな感情が溢れてゐます。
 ブラマンクの油絵はどれも意欲の熾んな、対象を征服せねば止まない例にない程な勇気と精力を思はせる作です。パレツトナイフと筆が遠慮なく奔放に使用してありますがそれが実に些の無駄もなく要領を得てゐます。白と黒の効果が際立つて勝れてゐます。しかし受感が立体的であるのに関はらず衝いて来るものは案外平板的なものです。
 ボナールはモヤ/\の緑の樹立など描いてゐますがどうも私には親しめません。
 マチスは三点ありますが矢張り図抜けてゐます。「白衣の女」が中で一番好きなものです。何でもなく描いてゐるやうで実は造形の妙を極めたものです。技巧も充分それを表現し得てゐます。こゝまで来れば自由も不自由もない、生活即芸術の至上境でせう。
 ル・シダネルとコストは印象派系の作家ですが少し粗いやうです。
 コツテの作では渋い調子の黒衣の女二人を入れた「ブルターニュの女」が一番勝れてゐます。
 デスパニヤの作中ではボタ/\の「花」や「裸体」より躑躅《つつぢ》の花のある大きな静物「花と果実」なんか一番いゝやうです。
 ドニやカリエールには感心出来ません。前者のものでは色の落ち付いた「浜辺の子等」がいゝやうです。其他ルノアールもセザンヌも今度来てゐるのは下らないものです。マイヨールのデツサンも微弱だし、ロダンも今度のでは彫刻よりデツサンの方が面白いと思ひます。
 ピサロの一点は仲々丁寧に描いてあります。然しこの人が嘗て印象派の大立物として後進の多くに仰がれたのかと思ふと何か淋しい気がします。その年月が感ぜられます。
 カモアンは大小二十点ありますが皆相等に面白いものです。色が美しく軽く達者に描けてゐます。何よりも自由な気持がいゝと思ひます。「ひる寝」「美しき田舎娘」の大作共にいゝ効果を与えます。
 フランドランのは静物に面白いのがあります。「人形」は中で一番いゝと思ひます。
 紙数が大分予定より超過しそうですから急ぎます。
 マルクエの一点は好いものですがこの人のとして少し飽き足りません。ゲランは一向好きになれませんが、デユフレーヌの大作二点は素晴しいものです。大きな黒線と茶と黒緑と赤とコバルトなどの色彩が一種物凄い程なコンポジシヨンを作つてゐます。ゴーガンの版画は仲々面白くこの人の油絵よりも或はよくはないかと思ひます。
 それから立体派の作が五六点、エルバン、グリイス、セヴエリニー等の水彩やグアツシユのものがありますが少し様式化されてゐて生々した感じに乏しく物足りません。エルバンは堅く寒く、グリイスの木炭画の静物が一番いゝやうです。ド・ウエロキエの唐紙のやうな紙に描いた南画のやうなものも試みに終つてゐるやうです。メツチンガーの風景も少し窮屈を感じます。
 最後にピカソが三点、中一点は旅芸人の二人が立つてゐる石版画です。確かな素描と色彩を示してゐます。二点の油絵は実に不思議な画面の効果を出してゐます。物質に対する作者の鋭感がその素晴しい画面形成の術と一致して譬へがたない〔#「た」に「ママ」の注記〕力を以て観る者の心をゆすぶります。構成の美の意識が隅隅まで漲り亘つてゐます。
 以上はほんの概略の感じのみで一向纒りのない話です。各々異つた全体の作品の感じをそれ/″\に受けはしましたが矢張り勝れていゝものは二三の作家で、他は大体に於てさまで私達を牽きつけるものではありません。数多い作品の中では随分ひどいものもあるやうです。只その自由な空気が嬉しいと思ひました。 (一二、四、一〇)



初出:『みづゑ』219号(1923年5月)pp.12-14
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.237-241
  1. 2013/12/27(金) 02:37:27|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

造型第一回作品展覧会を観る

 造型同僚は曰ふ「芸術は滅亡した。造型がそれに代つて生れた」と。
 この提言を承認する前程として〔#「程」の横に「提」〕、芸術及び造型なる言葉の定義を尋ねて見る必要があるが、「アトリヱ」三月号に於ける岡本唐貴氏の「造型とその意義に就て」なる論説の中にも明確なる定義を示されてゐない。が岡本氏の右の一文は未だ論考の中途にあり随つて今後の解説を待たなければならない。故に茲ではその名題への質疑は保留として私一個の愚見を叙べる。
 芸術──造型、二者は本質的に厳然差別されねばならないか、「芸術」を「我等の生活に於ける凡ての情緒の美的表現である」と仮定したならば、而して絵画彫塑を称ぶに従来我等の「造型美術」と称するならば、「造型美術」は、言葉の許す最も広義なる解釈に於て「芸術」なる一語に包括されないであらうか。茲に言ふ芸術とは、ブルヂヨアのそれ、インテリゲンチヤのそれ、プロレタリヤのそれ、各〔々〕の芸術を包含しての謂である(この三様の分類は前記岡本氏の論説中に於ける社会心理の三様の区別に依るもの。)
 況んや、こゝに陳列されたる作品の「形式」が、機械生産品でなく手工業品でなく、完全に「絵画」及び「彫塑」であつて他に何等実用的目的を有せざるものであれば、これ等を「造型美術」として「芸術」の範疇に入れて観賞することは差し支へないと信ずる。而して尚ほ私は、会場の入口壁面の設計装飾や吉田氏作ポスター等をも同じ立場よりして観賞する。──(工場や機械や停車場等如何に屢々時代的優美或は壮美の感覚を持つて居るか)──
 或は同僚の言があるであらう。譬へその形式に於て過去のそれと相似の点ありとするもその製作の全意識内容に於て断然二者は差別さる可きだと。
 それは真実である。一例を、吉原氏の「顔」(60)に採ればそれは外形の相似に於てドランの或る作と共通なる或るものを持ち乍ら作そのものゝ目指す所は全然別である。彼の、物の重量、容積、均衡等の表現を、色彩の渋みある洗練と、それを有効ならしむる筆触との調和的な完成に対して、是は、それ等一切の放棄に依つて或る全然異つた感触を持つ。朱と紅の顔にエメラルドの背景、頭髪の紫、三色の色度は極度に高調され各自その最上を働いてゐる。然も我々にその不思議なる透徹された多義的なる美的快感を与えることに於て確かに我等の芸術であると云ひ得る。
 意識内容は各時代々々に異つて来た。王朝時代の、封建時代の、資本主義時代の。そしてそれが当然である。而してそれ等各時代の異る各表現を我々は芸術の名に総称して来たのである。然しながら、私自身にとつてその名称は孰れでもよろしい。唯眼前にある如是の精神、如是の行動──で充分である。

 会場の全般に亘つて或る共通したる表現があると云ひ得るが、各作品に就いて見れば自ら作者の個人性に依つて特色附けられてゐる。総括的に、その表現形態に於て、ビザンチン式顔容と、ピカソ的形態と、泥絵的色感の共通する者が大部分で、更に加ふるに、チリコがあり、ドランがあり、メンセがあり、ルッソウも、グロツスも、シユリンプもアーキペンコもある。
 それ等が真実に、無雑作に、雑然と、一見無秩序に同居するが、それは不思議に現代的魅感を〔#「感」に「ママ」の注記〕唆る所の効果的表現に達してゐる。何故ならばそれ等の様式の綜合に於てよりも以上にその内容に於て時代意識の鋭角的体験だからである。これ等の作品に依つて、現在我等の環境に何が没落しつゝあり、何が勃興しつつあるかを見逃すことは出来ないであらう。
 私はこの春以来、数度の上野の展覧会に於て極度に退屈な腫物を持て余したが、この会場で見事切開手術を受けたる如き快感を覚えた。以下、各作品に就ての概感──

 推薦出品である寺島貞志郎氏の二点中、「裸体」は力作ながら全体の効果が弱い。ヨロ/\の線と面とが部分的になり過ぎたか。「母と子」は無難だが色彩の階級を一息緊めたら更に美しかつたであらう。
 浅野孟府氏は確定的地歩を占めつゝ進展しつゝある。彫塑「赤い顔」の端正と滋味と量感の豊富さ。「黄色の立像」の力感──殊にその顔面と、太腿より下肢に至る豊麗な直線。トルソー二点は不思議な温情に富む。油絵「裸体と背景」はその人物の色塗りに於て躓《つまづ》いたと思はれる。画布のせいか。小品「青い帽子の首」と「二つの立像」が勝れてゐる。
 吉田謙吉氏のポスター五十枚街頭に吹き鳴らすクラリオネツトか。十字街の感覚信号か尖鋭雋敏なる感触に依つて非凡の資性を見る。
 岡本唐貴氏「高台に立つ二人の女」は場中の最大作である。灰色の裸体と木綿色キモノの女の立像。刃物の如き片雲、櫓が見え家が見え、ウルトラの池に橋、これ等が実に「存在」である。ルツソウの「アポリネイルとミユーズ」を想起する。彼より此は一層複雑なる単純であり非諧和的諧和である。遠望に依つて一層美しさを増す。桃色のジヤケツ──実に簡単に桃色なる──ウルトラのズボン、模様ある靴下、而してインヂヤンレツドの顔と手、「彫刻師浅野孟府氏の像」である。セザンヌもピカソも誰も斯ふは描かなかつた。範を求むれば田舎の祭礼に見る「のぞきからくり」の看板か──それも一層色彩的で発情的である。「一人の女」の現代的艶冶と勝れた詩的情趣。(31)、(32)の顔、殊に(29)の顔は善い。
 矢部友衛氏は「群像」一点を列べてゐる。三人の頭はそれ/″\赤、青、黒。レコードの瞳。粗大のやうでありながら全体の大きな力を失せぬ。物にこだわらぬ性格の表れか。近くロシヤへ行くといふ、健闘を祈る。
 吉原義彦氏はその色感に於て優つてゐる。透明朗徹なる感性。「楽隊」の桃色、エメラルド、白、レモン、朱、紅、コバルトの交錯は真珠色に輝く。ヤモリの手を広げた如き深紅の裸体「飛ぶ女」の美しさ。桃色の家、エメラルドの屋根、あかりのついた窓、深いコバルトの空、「家屋」は好個の抒情詩である。「音楽師等」その他総じて深い色彩の強烈なる対比的効果と形象に於ける曲線と直線、鈍角と鋭角との処理に就て特殊な才能を示してゐる。
 推薦出品の山上嘉吉氏の三点は、総明なる形態の設定と、白と黒と白緑の色感に就て、又流暢なる弧線、直線の交叉にに就て考慮し計算してゐる。
 吉邨二郎氏の小品五点は、数に於て面積に於て甚だ物足らぬ。而も旧作に属する由。その点甚だ遺憾に堪えないが、これ等の小品に就て見ても、就中「裸体」「音」の二点は善く氏の特性を発揮してゐるものと思ふ。
 神原泰氏は既に過去に於て充分に氏自身の世界を開拓してゐる。五十号の連作「マリヤとキリスト」五点。氏の作としては比較的具象的実在の表現を採つたるもの。抽象的なると具象的なるとを問はず、一貫したる抒情的純情の表現である所に氏の特殊な世界が開かれてゐる。(21)の白地に黒線、同じく(22)の薄藍色に同色の濃藍の線は照応して共にそれ/″\の好結果を得てゐる。(24)の背景のウルトラにネプルスの調和は美しい。「幸福に向つて」の連作八点の抽象的表現。(12)(15)(16)(17)を好む。兎も角もこの蒼白なる発光体の光度の益々強まらんことを希望する。



初出:『みづゑ』255号(1926年5月)pp.25-27
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.243-247
  1. 2013/12/27(金) 02:36:15|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

造型第二回展感

 会場入口に例に依つて岡本唐貴氏の大作があります。同僚の矢部、浅野両氏の立像で、この前の「高台に立つ二人の女」とほゞ似たやうな構図ですが今度の方が引き締つて色も調子も細かな味ひを持つてゐます。雲や山脈の起伏や人物の顔手の表情等に仲々面白い特殊な味を出してゐます。私は同君の作ではこれとも一つの「海水着の女」といふのを最も好みます。赤い衣、紫の空、肉体の赭の濃淡、深緑の草原など強く奇麗です。挙げた右の手は雲の水平線と並行して面白い効果を得てゐます。一体に氏の作品は一気に描き上げた中に所々カン所を占める色彩の配置に才智を見せます。「グループ」の中の左端の人物の着物の黄などそれです。
 吉原義彦氏は第一回の時の方がよくはなかつたかと思ひます。「窓に依る女」の人物の色も破調に強過ぎてゐます。デツサンも少し弱々しいと思ひます。「肖像」に見る苦心──光線を採り入れた老女の顔の薄青色の調子も背景の山の色としつくりしてゐない憾みを感じます。充分に制作の時日がなかつたので氏のやうな手数のかゝる制作には少し無理だつたのだらうと思はれました。
 寺島貞志郎氏の作も小品ばかりで物足らぬ感もありますが、私は前回のものより数段優れてゐると思ひます。色もよくなつて行くやうに思はれますが惜しいことにデツサンの部分々々に破綻を見せてゐます。
 矢部友衛氏はロシア行きの置土産に毛筆の素描「顔」一点を出してゐます。筆力も雄勁で量感もあつて同君の作として優れたものだと思ひます。
 山上嘉吉氏は大作を沢山出してゐます。「男の像」は人物の顔と首との不均衡が殊に目立つていけないと思ひます。総じて人物は形が壊れてゐて折角の色彩を殺してゐるの感があります。「立像の立てる風景」は例に依つて白エメラルド、黒、赤の快い階調のものです。「都会」も色彩に善いものがありますが形象の不確実さが目立ちます。「男の像B」「女の像B」がよいと思ひました。
 飛鳥哲雄氏の「塗る人」は色も筆触もいゝと思ひます。落ちついた黄色とよごれたやうな紫の調和は卑俗に堕せず相当に雅味ある効果を得てゐます。青い色の「子供と月」の小品は面白いと思ひました。
 吉邨二郎氏の作は大小取り混ぜて十点ありますが、みんなほがらかに野原の歌を聞くやうです。明るくほのぼのとしてゐて嚙みしめると細かな味を持つてゐます。それ/″\の作に氏独自の味ひを出してゐます。殊に可憐な小品五点は最も善いと思ひました。
 神原泰氏は方向を少し変へられた様ですが私は以前の作の方を好みます。色々考へてゐられるでせうが今度のは総じて味感が大ざつぱで粗々しいと思ひます。
 浅野猛府氏は不在で旧作の小品二点ですが矢張り善いと思ひます。「胸像」の方が纒まりもよく高雅なものだと思ひます。氏の作が二点しか出なかつたのは淋しい感がしました。
 吉田謙吉氏の「丸太組舞台装置模型」六つは見たゞけでも面白いと思ひます。実演の場合それが如何に動き働くかは素人の私には判りませんが兎に角これはローマンチツクで奇麗なものだと思ひます。
 安永良徳氏の彫刻大小二十点は元気一杯の仕事です。私は氏の前途を楽しみにしてゐます。



初出:『みづゑ』260号(1926年10月)pp.28-29
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.250-252
  1. 2013/12/27(金) 02:34:33|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

日本水彩画会展覧会感

 あんまり書くことはないが大体に就いて思ひつくことを言つて見ますが総体にどうも少し低調だと思ひます。芸術的感激といふやうなものが不足してゐるのが第一にいけないし材料の無理な使用が第二にいけないと思ひます。
 芸術的感激といふことはこれは望んだ所で一寸どうにもならない、其の人々の生活なり気質なり心掛けなりのことでこういふ風にしたらよいと型に嵌めて注文するわけにもゆかない。然しそういふ感激がなくては画はだいたい描けないもので描く必要もないものだ。内から湧く要求と感激がないならはじめから画は描けない、要求や感激の強弱に正比例して画の強弱も出来る。この会の大体を見て私はそれが甚だ弱い方に属すると思つた。
 材料の無理な使用といふことは水彩画会研究所時代からの持ち越しの問題のやうに思ふ。油絵的見方なり感じ方なり表はし方なりと水絵のそれと混同されてゐる──と、この言い方は変だが、そんならどういふのが油絵的手法でどういふのが水絵的手法だと言はれると面倒臭くてこゝで書けないが兎に角現在私達が展覧会等で接する作品の大多数は油絵だし自然不知不識の間に油絵的教養を受けてゐる。謂はゞ日本生活の油絵的表現に画家の気質が沁み込んでゐると思はれる。それを水彩画だけで表現するとなると甚だ不自由である。何だか自繩自縛といつた気がする。意識的な個性だとか水彩画家だ等といふ考を捨てゝ終つてもつと心持も態度も自由であつてほしいと思ふ。これは永い間に水彩画会型と言はれた型さへこしらへ上げて他からの様々な刺激に一切無感覚となつたのではないかと疑はれる程だが又その後から来るより若い人達までが何時の間にか水彩画会型を被り水彩画会的身振りでやつて来るやうな感さへある。
 水絵の人はよく「油絵の中へ入れると水絵は損をする」といふがそれが当然であつて損をしてゐるのは水絵そのものゝ罪でなく水絵作者の罪だと思ふ。
 何だか材料の特長論見たやうになりかゝつたが例へば後藤工志氏の諸作にしてもその努力も効果も私は大いに認めるけれども、これだけのことでこれ以上どういふ風に進展出来るかと思ふ時甚だ心細くなる。こういふ風な見方なり感じ方なりで行つたらもつと色にも調子にも細かに/\と入り込んでゆきたくなるだらう。それを途中で材料の為に諦めて切り上げてゐるやうに見える。これは氏が水絵の材料を知悉してゐるためにこれ以上描いて材料を殺すことを警戒してゐるのである。氏のやうな行き方だつたら油絵の方が適してゐると思ふ、油絵だつたらもつと仕事が続けられる。
 相田直彦氏にしても望月省三氏にしてもその他水野以文氏、吉田豊氏、吉崎勝氏、平沢大氏等同じ感想を持たされる。諸氏は皆よく水絵の材料を知つてゐるが故に却つて表現が狭められ歪められて、画因が素直に画面へ出てゐない。所謂水絵的画面になつてゐる。これは私の最初に言つた水絵的といふ意味とは違ふ。
 小山周次氏の諸作は明るく透明で所謂水絵らしい水絵とも言はる可きもの。作者の受感や材料駆使の用意や同感出来る。「懐古園」は仲々善い。
 河上左京氏の一点は例の如き静物。同じやうな題材を繰り返し/\描く根気に感心する。時々は方面を換へて見てはどうか。
 赤城泰舒氏の作は甚だ興味がある。何か見出さうと努力してゐる。実に小心にではあるが型をつくるまいとする何か新鮮なものへの憧れがある。一作一作を挙ぐれば失敗もあるし所詮未完成だがそれ故に私は同感である。

 水彩画専門でない人、油絵を主として水彩も時々は描くといふ人達の作品の方が一般の評判通りに私も面白いと思ふ。而して私の言ふ水絵らしい水絵といふものが水絵専門の人のには少くて却つて油絵をやつてゐる人の水絵にあると思ふ。
 林重義氏の一点は氏として失敗の作だがそれでも画としての面白さを充分持つてゐる。色など仲々面白い。
 富田温一郎氏の諸作も善いと思ふ。「裸婦」や「椿と鶏」等のんびりとしてゐる。
 木下義謙氏の二点はたど/\しい筆致の中に純朴な画面を保つてゐることは氏の油絵と共通してゐる。「花と鳥」の鳥は仲々うまいと思ふ。
 田口省吾氏は人物ばかり三点出してゐるが、それ/″\に面白い、「顔」が中で一番勝れてゐる。
 吉田卓氏は綺麗な小品を出した。巧妙なものだが少し綺麗過ぎたやうに思ふ。
 小林和作氏の二点も豊麗だが形が少しくづれた憾みがある。
 一一書いて行けば長くなるから以下印象に残つた作だけ大急ぎで列記する。
 宮坂春三氏は静物二点共、色も美しいし調子も調つてゐる。
 斎藤大氏の「横浜港」他二点共渋滞なく出来てゐる。色がいい。
 無縁寺心澄氏の作品は以前から面白いと思つてゐるが今年は昨年のより善いと思ふ。しかし色の大摑みはよいがその中に何所か細かな変化があつて欲しい。
 田中謹吾氏の二点は美しい色で丁寧に描いてある。二点共に好きである。
 井上安男氏の筆は少し軽く動き過ぎると思ふが面白い所もある。茶つぽい色が気になるが。
 不破章氏は不透明色の使用に苦心してゐるらしいが効果は少し重苦しくなつてはゐないか。
 中西利雄氏は器用でうまい。明るくすつきりと出来てゐるが器用過ぎる惧れがある。
 間所一郎氏は元気にやつてゐるが色と調子に今一考ほしいと思ふ。
 高田力蔵氏はうまくなつたと思ふ。「花」「静物」は手古摺つてゐるが風景三点は皆面白い。
 小山良修氏は元気一杯で仕事をしてゐる。作画の気持に同感である。色も善い。
 河野健美氏は少し弱々しいやうに思ふ。
 その他、星野正三氏の「花」。花厳厳氏の「舟着場」。富田佳秀氏の四点。早川国彦氏の二点。五島甚之助氏の「静物」等それ/″\注意を牽かれた。



初出:『中央美術』13巻3号(1927年3月)pp.164-170
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.253-256
  1. 2013/12/27(金) 02:32:59|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

第四回一九三〇年展感

 本郷展の場合にも書いた事ですが僕のは評と云ふより印象記といつたものですから当るか当らぬか作者の意図に反するものがあつても予めお断りしておきたいと思ひます。
 第一室
 小俣球氏「横たはる裸体」は墨の使用も全体の色も悪く無いと思ふが腰から下部が少し弱い。「自画像」の赤と青は生きてゐます。菊地精二氏の「静物」、元気で構図も相当考へてあるが少しく破調な所がある。清水刀根氏「裸体」の青白い調子は面白い、背景は柔らかでいゝが躯の蔭の部分の輪郭線が固い。前田寛治氏の諸作、「棟領の家族」は大作である。群像の組み立てはどつしりとして危な気がない。変化の多い茶と灰、藍等。背景の一見破調に見えるウルトラが画面の最下部の四角い白と対照して美しい効果を挙げている。「仰臥裸婦」は茶の筆触が少し眼立つ。「赤衣の像」は暗褐色と赤との効果健実〔#「健」の横に「堅」〕。「横臥裸婦」は一昨年の帝展出品の裸体と同系のもので揺ぎない写実である。小品では「花」を最も愛する。間所一郎氏の「植物園」は水彩での大作だが少し纒りがない。色が濁つたと思ふ。樹木の大きな幹など殊にそうである。石川真五郎氏の二点、「桃」は取材が面白い。西脇マヂヨリー氏の「黒人ヂヤズ」は色彩の平面的布置の中に或る節奏を見出される。墨の使用は巧みである。新海覚雄氏の二点は達者だけれど色が全体に少し白けてゐる。小さい人物のほうがよいと思ふ。内田巌氏、「風景を配せる少女像」、少し鈍いやうだが落ちついた無難な作。「卓による女」の方が優れてゐる。長谷川利行氏の五点、大作「汽鑵車庫」は線が弱いのと朱の色が平面なために力が弱い。「停留所」「人物」が優れてゐると思ふ。これは仲々面白い。
 第二室
 井上長五郎氏の二点は暗過ぎるが丁寧穏健である。中村節也氏の三点、裸体の色、紫調の色は一考を要すると思ふ。それと物質感が一様になつてゐると思ふ。酒本博示氏の作は出来上つてゐながら少し窮屈である。潤ひを欠いてゐる。吉井淳二氏の中では「風景」を採る。「裸婦」は力作だが灰色が乾いてゐる。「婦人座像」は無難。酒井精一氏は健全な作風だが固くなる傾向がある。「風景」を採る。小島善太郎氏の諸作は光と量感との融合である。「冬日」は逆光の中に盛り上つた叢や畑や畔道等柔らかでよい。「白毫寺村」は大作、少しモヤ/\しとて弱くはないかと思ふ。奈良あたりの小品にいゝものを見る。それ等はそれ/″\美しいと思つた。
 第三室
 一木万寿三氏の「冬景色」は色がいゝ。杉沽江氏の「静物」は元気に描けてゐる。峰村リツ子氏の「静物」は茶っぽい色と黒とがよく生きてゐるし筆もよい。野口弥太郎氏の数点の中で大作「裸」は少し締りが足らないやうである。「姉妹」は渋滞なく気持よく出来てゐる。「断崖」は構図も面白いし色も美しい佳作である。「残雪風景」は中で一番よいと思ふ。山の傾斜面の表現は立派である。「ボート」は少し白けてゐるけれど面白い。佐藤克三氏は筆が対象から離れ勝ちなのを注意されたら色はよいと思ふ。二点共面白い。加藤一也氏の作は律動的な画面を元気に仕上げてゐる。
 第四室
 中山巍氏の滞欧作品三十八点は別室佐伯氏の八十余点と共に近来の好収穫である。作品の総体を通じて其の特色とするものは構図の緊密、強烈な色彩の尖鋭的な対照であつてそれ等が聡明なる理知の統制によつて落ちつきある諧調を保つてゐる事である。黒と白、緑と朱等稍もすれば画面を徒らに騒がしくする色彩が此所では重々しく調和してゐる。穏やかな孤線と鋭い直線の照応、悉く均整を得て静かな巧みさを見せてゐる。風景よりも人物の方に傑れた作が多い。中でも「鸚鵡と農女」「青背座婦」「家族」「窓」「X夫人の肖像」「或る青年画家像」「画室」その他「女の首」と「男の首」等。風景は人物に比して稍単調に固過ぎる作がある。今後の制作を期待する。
 第五室
 田中行一氏の作はアヅキ色が鈍く単調であるが全体には面白さがある。土田銀松氏の「風景」は青白い緑と黒い屋根の色がよい。山田三郎太、小田幸子両氏の静物も佳い所がある。中野和高氏の大作「二人休息」は構図も色彩も今一息といふ気がする。「外套を着たる婦人」も効果が弱いと思ふ。「風景」「母子像」を最も佳いと思ふ。殊に後者は傑れた作品である。島葵氏の作品は佳作である。「座せる裸女」の青白い体も寒さに落ちず「裸体」は全体に柔らかな諧調がいゝ。「静物」は達者に描けてゐる。田中忠雄氏の「憩へる労働者」は背景の薄墨が単調な為主体を稍うるさく見せる欠点があるが相当に纒まつてゐる。高島ちよ子氏の「風景」大まかに行く調子もよく色も暖かに落ちついてゐる。佐藤章氏の「裸体」は体のヤニ色一色に変化がほしい。
 第六室
 清水錬徳氏の二点は色が面白い。野口一二三氏の二点も色が美しい。筆も達者である。林武氏の三点は色の調和の美しさ、筆触の滋味と相俟つて豊麗にして温雅なる、氏近来の傑作と思ふ。三点とも推賞したい。佐伯米子氏の作は先年に比してより繊細になつた。どの画面も美しいと思ふ。「モランの路」(一)の近景の赤い窓は少し強過ぎまゐか。同じく(二)の中景の赤屋根と共に。「室内」「農家の裏」「モランの家」は傑れてゐる。此室では其他に中村三樹男、吉田耕二、豊藤勇、外山五郎、尾田龍、高橋賢一郎諸氏のものを佳いと思つた。
 第七室
 高森捷三氏の「静物」は相当に達者である。野口信氏の風景も佳作。大淵武夫氏の「初冬」は色が少い〔#「い」の横に「し」〕寒い。前田利一郎氏の「海辺風景」は冴えてゐる。宮坂勝氏の諸作はそれ/″\に面白い。人物よりも風景に傑れたのがある。「キャンプ」も佳いと思ふが「山の道」は最も困難な題材を立派に纒めてゐる。この手腕は一朝の効果ではない。通じてどの作にも画面を貫く作者の意気が見える。実に瞭然と。今度の出品が比較的小品ばかりだつたのは惜しい。川端伊織氏の作は落ちつきあれど少し鈍い。青い色は悪くない。藤川栄子氏の「静物」は変つた構図である。才気が見える。白と黒との使用に佳いものがある。その他小原雄二、石井寛高、村山敏樹、丹羽長兵衛諸氏に注意した。
 第八室
 この室は故佐伯祐三氏の遺作室で人はこの室に入つて先づこの夥しい作品がその少数を除く他僅々六ケ月位の間に為された事を知つてその芸術に向けられた熱病的な心情に撃たれる。他人の一年は氏の一ケ月か半ケ月にしか当らないであらう。氏こそ文字通り画の為に生き画の為に死んだと云ひ得る。これ等の作品の前に立つて今更の如く氏の早逝が悼まれる。作品の一一に就いて此所に書いてゆく紙数がないのでそれは省く。総体的にその特殊な雋敏なる感覚に就いて、感傷的な詩情に就いて、更にその神経的な鋭さに就いて学び考ふるべき多くの物があると思ふ。
 第九室
 妹尾正彦氏の三点は意図する所は了解されるが強烈な色彩が平面でそれぞれ独立してゐるのが欠点である。今口憲一氏、画面は強いが物象をくゝる黒線に変化がない。たゞの輪郭線ではいけない。伊東市太郎氏の作も強いが単調に過ぎる。里見勝蔵氏は大作の裸体二点が徹回になつたのは惜しい。里見氏は熱情の人である。氏の画布はその余分なき衝附け〔#「衝附」に「ママ」の注記〕場所である。画面はその有りのまゝの熱情で蹂躙される。故に屢々理知的構成は破られるがそれは氏にとつて問題ではないであらう。氏の感情は何時の場合でも暴君であり色彩も線も形も悉く雑兵の如く頤使《いし》される。傾来〔#「傾」の横に「頃」〕益々その暴君振りを進展される所痛快である。今度の出品中鯡の静物二点は珍らしいものである。小野幸吉氏も大胆な描写法である。今一息緊密さが欲しい。藤田嘉六郎氏の諸作は珍らしい色彩で眼に立つ。朱と白けた緑との駆使に特色がある。其他伊地知たみ代氏、服部正一郎氏、徳永王樹氏、野村守夫氏、松島一郎諸氏を注意して見た。



初出:『みづゑ』288号(1929年2月) pp.22-23
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.260-264
  1. 2013/12/27(金) 02:30:57|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

奉讃展記

 批評なんか今の私には出来ないとお断りしたのだけれどそんな個人的理由なんか断然一蹴されて止むを得ずこんな無雑な文を作るのです。批評ではなく案内記である。御諒解を願ふ。
 奉讃展は何しろ大展覧会でその中の洋画に就いてだけでも一一書いて行ったら随分長い時間と紙数を要するのでその中の僅かの作品に就いて室の順で目録を写す程度に止めます。
 最初の室で寺内万次郎氏と耳野〔卯〕三郎氏とが共に裸体の力作を見せて居られる。寺内氏の人物の頬の赤い部分がカスリ傷でも受けたやうに見えるのと背景の黒が今一考欲しいと思ふ。耳野氏の灰色調は美しい。松田文蔭氏の墨と黄土の調和は成功してゐる。平川要。棟方虎雄。石川真五郎氏等のものを面白いと思ふ。
 第二室で中出三也氏の作は色はよいと思ふが筆が乱雑で調子が足りないのが欠点と思ふ。十亀広太郎氏は或る転向に居られるやうである。水彩の室では恩田孝徳氏の作が大作でもあり効果も優れてゐる。小山周次氏のものは叮嚀な写実で同氏近来の佳作と思ふ。赤城泰舒氏の作は水彩展の方がよかつた。
 第三室は鹿子木孟郎、中村不折、湯浅一郎、白滝幾之助氏等の作が並ぶ。片岡銀蔵氏の茶勝ちの白調は美しい。
 第四室には和田三造氏の強いウルトラの背景に桃色、黄白の裸体がある。牧野虎雄、奥瀬英三。佐竹徳次郎、太田三郎、高間惣七、矢島堅士諸氏の作がある。高間氏の白と紅との作品は強く美しい。
 次ぎの室は熊谷守一、曽宮一念、鈴木保徳、有島生馬、江藤純平、片多徳郎、中沢弘光、南薫造、藤島武二、山下新太郎、満谷国四郎、正宗得三郎、鍋井克之、小出楢重、坂本繁二郎、石井柏亭、長原孝太郎、安井曽太郎諸氏と斯う名前を並べただけでも既に了解が出来ると思ふ。有島氏の今度の出品は大作でもあり場中の秀逸と思ふ。
 第六室には中村研一氏の大作がある。小島善太郎氏のは何時もの程みつちり描いてないと思つた。甲斐仁代氏のは筆が乱雑で調子が弱い。海面の遠近など出来てゐないと思ふ。その他に津田青楓氏の例の黄、青、赤、黒、紫の人物がある。
 第七室では宮坂勝氏の群像が眼につく。平塚運一、山下品蔵諸氏のものも佳作である。
 第八室、国枝金三、鈴木亜夫、黒田重太郎、小林和作、林武、伊原宇三郎、林重義、鈴木誠、鈴木千久馬、中野和高諸氏。鈴木亜夫氏の作は構図が面白い。色もよいと思ふ。中野氏の作は達者である。鈴木千久馬氏のは堂々として仲々立派である。三田康氏の赤いオーバアの肖像は筆も色も調子も落ちついてゐて重みがある。鳥海青児氏の小品は暗いけれど面白い。
 第九室、最後の室でこの室はいろ/\変化があつて面白い。先づ棟方志功氏の「後庭」を面白いと思つた。茶勝ちの桃色調は非常に美しい。中村三樹男氏のものは少し堅くなつた。野口道方氏は赤い縞の着物の描法が善い。高畠達四郎氏の作は原色に近い強烈な色をよく調和さしてゐる。大淵武夫氏の作は野間氏の作を連想せしめるが色が少し浅いと思ふ。里見勝蔵氏は黄色全体の中に少しづゝの色を利かして不思議な効果を挙げてゐる。人体の線は殊に美しい。佐野繁次郎氏のものは新鮮な感覚的なものが基調をなしてゐるが少し説明的である所が欠点と思ふ。高田力蔵氏の作は構成の弱さと色の甘さが欠点であるが意図する所は賛成である。清水刀根氏のは堅実である。清水登之氏のは色や構図は優れてゐると思ふが線に今一考を欲しい。中山巍氏の大作である、氏のウルトラの使用には特色がある。この作には構図に少し無理があるやうに思ふ。児島善三〔郎〕氏は不断の勉強家である。今度の作も優れた力作で人体の蔭の色は殊に美しい。額縁の考案も面白いと思ふ。佐伯米子氏は黒と白との調和で表現されてゐるが、今度のは少し離れて見ると色が単調に見える。鈴木信太郎氏の作は稍扁平に模様じみて見えるが色は相変らず美しい。島あふひ氏のも大作である。人物の組み合せも自然だし青白き調子に人体の薄い白茶色も美しい。その他長谷川利行、酒本博示、靉光、西脇マヂヨリ、滝川太郎、妹尾正彦、長尾政次郎、峰村リツ子諸氏の作品をそれ/″\面白く思つた。
 奉讃展の洋画に就いては以上で打ち切りとしてこれは駄足であるし〔#「駄」の横に「蛇」〕私一個の考へかも知れないが日本の現在の洋画の取材の範囲が案外狭く表現法も随つて或る規範の外に出でず、一口に言へば作画の態度が余りに狭い所に固定されてゐると思ふ。一つの展覧会を見ればこの事は明らかである。花の絵、人物──着衣と裸婦、静物、海岸の風景、山の風景、或は野原と点景人物、街、港、工場等それ等が少しづゝ構図や色が変つて描かれてあるがその摑み方なり表現法なりが大体共通してゐると思ふ。も少し私はいろ/\な方面からいろ/\な方法で表現する人達があつてもよいと思ふ。色彩のリズムとかニユアンスとかコンポジシヨンとかヴオリユウムとかマツスとか平面とか立体とか画面の雅味とかそういふことも勿論あつてよいがそれ以外に新しい境地を拓いて行く苦心と努力も欲しいと思ふ。即ち我々の日常の現実をもつと広汎に確実に把握することである。例へば取材としての二三の例を挙ぐれば──「連絡船から桟橋に上つた紳士は鞄を提げてはゐなかつた」「米国は大巡に三億弗を投じて建艦する」「六法全書、普及版、特価、一六〇」「ナチユラリストとシンポリストたちは死んだ、彼等の死灰に平和あれ」「つかの間はより添ふひとの場面消えしメリーダンカンの泣くこゑききにけり」「機械主義は純粋形態に於ける合理主義である」「お嬢さんの胸の上を河は流れてゐるのでした」「都市対農村住民の所得不均衡問題」等々々、書けば限りない事だがこういふものを取材とした作品も大いにあつてよいと思ふ。無いのが寧ろ不思議と思ふ。そういふ新しい境地への進展は必然作品の進展を意味するものであると信ずるのです。命ぜられた紙数を超過したのでこゝで切ります。



初出:『アトリヱ』7巻5号(1930年5月)pp.44-49
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.280-283
  1. 2013/12/27(金) 02:29:27|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0

《文化は人間を妨害する》

文化は人間を妨害する


文化は人間を妨害する

1933年
油彩・カンヴァス
行方不明

展覧会歴:
1933年 「第20回二科展」(東京府美術館)
1934年 「第23回来目会展」遺作特陳(久留米商業会議所)



出典(図版):第20回二科展絵葉書(カラー)
出典(作品データ):図録『詩情と幻想の世界 古賀春江回顧展―生誕80周年記念―』(1975年、福岡県文化会館)p.141
  1. 2013/12/27(金) 02:25:46|
  2. 作品の紹介(参考)
  3. | コメント:0
次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。