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古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

松田諦晶

松田諦晶(まつだ・ていしょう) 1886年10月14日〜1961年12月8日

洋画家。筑後洋画壇の中心人物。現在の福岡県久留米市京町に生まれる。本名・実。父親は旧久留米藩士。幼時を浮羽郡で過ごした後、1899年、久留米に戻り、久留米高等小学校を経て久留米商業学校に入学。1904年、同校を卒業。高等小学校時代に筑後洋画壇の祖・森三美から洋画の手ほどきを受け、後には郷土の先輩、坂本繁二郎や青木繁らに批評を受けたりしているが、正式に誰かに師事するということはなく、殆ど独学で洋画の研究を行う。このような洋画の修業の後、明治末年から大正前半にかけて太平洋画会展や二科展に入選し、二科展では二科賞の候補になったこともあるが、1921年の第8回二科展に《静物》が入選したのを最後に中央画壇を離れ、作品の発表の場を専ら「来目洋画会展」に求めるようになる。久留米においての松田は、1913年に同志と共に「来目洋画会」(後に「来目会」と改称)を結成し、その中心人物として展覧会の開催や同人の写生会などに努め、多くの後輩を指導し、久留米の洋画の振興に大きな役割を果たした。また、1931年には自ら画塾「久留米洋画研究所」(1954年に「来目洋画道場」と改称)を開設し多くの弟子を育てた。没後の1963年に遺作展が開催される(井筒屋)。また、1985年に大規模な回顧展が石橋美術館で開催される。評伝に吉田浩『櫨の国の画家たち―松田諦晶物語』(西日本新聞社、1980年)がある。主な弟子に古賀春江、藤田吉香らがいる。古賀は中学明善校時代に洋画の指導を受けて以来、生涯にわたり松田に師事する。その関係は先輩、後輩の間柄を超えた無二の親友といった関係に近かったといわれ、石橋美術館には古賀から松田に宛てた30数点に及ぶ書簡が残っている。松田の絵は初期には青木、青木亡き後は坂本の影響が見られ、また、古賀が写実的な絵を描いていた頃(大正中期〜後期)の作風とも似ているため、松田の絵が前記3人の偽作として流通することもしばしばあった。ただし、松田は几帳面な性格で、生涯のほぼ全作品を写真に撮り、29冊のアルバム(現在、石橋美術館に保管)に整理して残しているので、これを参照すればそれらの作品の真贋は判別できる。現にこのアルバムを参照してそれまで古賀作とされていた作品が松田作に訂正された例が幾つかある。また、松田の几帳面な性格はアルバム以外にも及び、スケッチブック(80冊)や日誌(36冊)、手帳(24冊)、大量の書簡、新聞の切り抜きなど、一生涯に及ぶ膨大な資料を残しており、筑後画壇の動向を知る上で欠かすことのできない資料となっている。これらの資料は松田の死後、実弟・茂介が保管していたが、1978年、西日本新聞に連載された『櫨の国の画家たち 松田諦晶物語』(吉田浩記者)を契機に吉田の仲介により石橋美術館への寄託の話が持ち上がり、翌1979年、茂介より石橋美術館に永久寄託された。


参考文献:
吉田浩『櫨の国の画家たち―松田諦晶物語』(西日本新聞社、1980年)
図録『生誕百年記念 松田諦晶展』(石橋美術館、1985年)
図録『青木繁・坂本繁二郎生誕120年記念 筑後洋画の系譜』(石橋美術館、2002年)
  1. 2014/07/10(木) 23:00:00|
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佐野年一

佐野年一 1895年〜没年未詳

旧藩士の家に生まれる。中学明善校で古賀春江と同級で、共に松田諦晶に絵を教わった。1913年、上京。古賀と同じ法正寺に寄寓。20歳の時、太平洋画会展と日本水彩画会展に初入選。1920年、古賀と好江夫人の結婚式の際、媒酌人を務める。後年、童話作家となり、毎日放送のライターを務めた。詩人・町田トシコの夫(註1)。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註2)。


(註1) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.13
(註2) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187

参考文献:
佐野年一「古賀春江の思出」 『筑後』5巻6号(1937年6月)pp.10-15
篠原正一『久留米人物誌』(菊竹金文堂、1981年)p.278

※最終加筆:2024年1月9日
  1. 2014/07/08(火) 16:00:00|
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