古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

奉讃展記

 批評なんか今の私には出来ないとお断りしたのだけれどそんな個人的理由なんか断然一蹴されて止むを得ずこんな無雑な文を作るのです。批評ではなく案内記である。御諒解を願ふ。
 奉讃展は何しろ大展覧会でその中の洋画に就いてだけでも一一書いて行ったら随分長い時間と紙数を要するのでその中の僅かの作品に就いて室の順で目録を写す程度に止めます。
 最初の室で寺内万次郎氏と耳野〔卯〕三郎氏とが共に裸体の力作を見せて居られる。寺内氏の人物の頬の赤い部分がカスリ傷でも受けたやうに見えるのと背景の黒が今一考欲しいと思ふ。耳野氏の灰色調は美しい。松田文蔭氏の墨と黄土の調和は成功してゐる。平川要。棟方虎雄。石川真五郎氏等のものを面白いと思ふ。
 第二室で中出三也氏の作は色はよいと思ふが筆が乱雑で調子が足りないのが欠点と思ふ。十亀広太郎氏は或る転向に居られるやうである。水彩の室では恩田孝徳氏の作が大作でもあり効果も優れてゐる。小山周次氏のものは叮嚀な写実で同氏近来の佳作と思ふ。赤城泰舒氏の作は水彩展の方がよかつた。
 第三室は鹿子木孟郎、中村不折、湯浅一郎、白滝幾之助氏等の作が並ぶ。片岡銀蔵氏の茶勝ちの白調は美しい。
 第四室には和田三造氏の強いウルトラの背景に桃色、黄白の裸体がある。牧野虎雄、奥瀬英三。佐竹徳次郎、太田三郎、高間惣七、矢島堅士諸氏の作がある。高間氏の白と紅との作品は強く美しい。
 次ぎの室は熊谷守一、曽宮一念、鈴木保徳、有島生馬、江藤純平、片多徳郎、中沢弘光、南薫造、藤島武二、山下新太郎、満谷国四郎、正宗得三郎、鍋井克之、小出楢重、坂本繁二郎、石井柏亭、長原孝太郎、安井曽太郎諸氏と斯う名前を並べただけでも既に了解が出来ると思ふ。有島氏の今度の出品は大作でもあり場中の秀逸と思ふ。
 第六室には中村研一氏の大作がある。小島善太郎氏のは何時もの程みつちり描いてないと思つた。甲斐仁代氏のは筆が乱雑で調子が弱い。海面の遠近など出来てゐないと思ふ。その他に津田青楓氏の例の黄、青、赤、黒、紫の人物がある。
 第七室では宮坂勝氏の群像が眼につく。平塚運一、山下品蔵諸氏のものも佳作である。
 第八室、国枝金三、鈴木亜夫、黒田重太郎、小林和作、林武、伊原宇三郎、林重義、鈴木誠、鈴木千久馬、中野和高諸氏。鈴木亜夫氏の作は構図が面白い。色もよいと思ふ。中野氏の作は達者である。鈴木千久馬氏のは堂々として仲々立派である。三田康氏の赤いオーバアの肖像は筆も色も調子も落ちついてゐて重みがある。鳥海青児氏の小品は暗いけれど面白い。
 第九室、最後の室でこの室はいろ/\変化があつて面白い。先づ棟方志功氏の「後庭」を面白いと思つた。茶勝ちの桃色調は非常に美しい。中村三樹男氏のものは少し堅くなつた。野口道方氏は赤い縞の着物の描法が善い。高畠達四郎氏の作は原色に近い強烈な色をよく調和さしてゐる。大淵武夫氏の作は野間氏の作を連想せしめるが色が少し浅いと思ふ。里見勝蔵氏は黄色全体の中に少しづゝの色を利かして不思議な効果を挙げてゐる。人体の線は殊に美しい。佐野繁次郎氏のものは新鮮な感覚的なものが基調をなしてゐるが少し説明的である所が欠点と思ふ。高田力蔵氏の作は構成の弱さと色の甘さが欠点であるが意図する所は賛成である。清水刀根氏のは堅実である。清水登之氏のは色や構図は優れてゐると思ふが線に今一考を欲しい。中山巍氏の大作である、氏のウルトラの使用には特色がある。この作には構図に少し無理があるやうに思ふ。児島善三〔郎〕氏は不断の勉強家である。今度の作も優れた力作で人体の蔭の色は殊に美しい。額縁の考案も面白いと思ふ。佐伯米子氏は黒と白との調和で表現されてゐるが、今度のは少し離れて見ると色が単調に見える。鈴木信太郎氏の作は稍扁平に模様じみて見えるが色は相変らず美しい。島あふひ氏のも大作である。人物の組み合せも自然だし青白き調子に人体の薄い白茶色も美しい。その他長谷川利行、酒本博示、靉光、西脇マヂヨリ、滝川太郎、妹尾正彦、長尾政次郎、峰村リツ子諸氏の作品をそれ/″\面白く思つた。
 奉讃展の洋画に就いては以上で打ち切りとしてこれは駄足であるし〔#「駄」の横に「蛇」〕私一個の考へかも知れないが日本の現在の洋画の取材の範囲が案外狭く表現法も随つて或る規範の外に出でず、一口に言へば作画の態度が余りに狭い所に固定されてゐると思ふ。一つの展覧会を見ればこの事は明らかである。花の絵、人物──着衣と裸婦、静物、海岸の風景、山の風景、或は野原と点景人物、街、港、工場等それ等が少しづゝ構図や色が変つて描かれてあるがその摑み方なり表現法なりが大体共通してゐると思ふ。も少し私はいろ/\な方面からいろ/\な方法で表現する人達があつてもよいと思ふ。色彩のリズムとかニユアンスとかコンポジシヨンとかヴオリユウムとかマツスとか平面とか立体とか画面の雅味とかそういふことも勿論あつてよいがそれ以外に新しい境地を拓いて行く苦心と努力も欲しいと思ふ。即ち我々の日常の現実をもつと広汎に確実に把握することである。例へば取材としての二三の例を挙ぐれば──「連絡船から桟橋に上つた紳士は鞄を提げてはゐなかつた」「米国は大巡に三億弗を投じて建艦する」「六法全書、普及版、特価、一六〇」「ナチユラリストとシンポリストたちは死んだ、彼等の死灰に平和あれ」「つかの間はより添ふひとの場面消えしメリーダンカンの泣くこゑききにけり」「機械主義は純粋形態に於ける合理主義である」「お嬢さんの胸の上を河は流れてゐるのでした」「都市対農村住民の所得不均衡問題」等々々、書けば限りない事だがこういふものを取材とした作品も大いにあつてよいと思ふ。無いのが寧ろ不思議と思ふ。そういふ新しい境地への進展は必然作品の進展を意味するものであると信ずるのです。命ぜられた紙数を超過したのでこゝで切ります。



初出:『アトリヱ』7巻5号(1930年5月)pp.44-49
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.280-283
関連記事
  1. 2013/12/27(金) 02:29:27|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0
<<第四回一九三〇年展感 | ホーム | 《文化は人間を妨害する》>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。