古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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高田力蔵

高田力蔵(たかだ・りきぞう) 1900年10月18日〜1992年10月31日

洋画家。福岡県久留米市生まれ。1916年、画家を目指して上京。本郷洋画研究所に通う。1920年、父の死で久留米に戻る。この年の秋、古賀春江を知る。1922年、第6回来目会展に出品。以後、1941年の第33回展までほぼ毎回出品。同年秋、再び上京。小学校の図画教員を務めるかたわら川端画学校に学び、石井柏亭に師事。アルベール・マルケに私淑する。1926年、日本水彩画会会員。1927年、第14回二科展に初入選。以後、1936年の第23回展まで連続入選。1930年の第17回展以降、古賀に触発されて超現実主義絵画を志向し、古賀の没後もその寓意的な画風を受け継ぐ。1936年、ベルリン・オリンピック芸術競技で銅賞。1937年、ブリヂストン創業者の石橋正二郎からアングル《泉》(ルーヴル美術館)の模写制作の依頼を受けたことをきっかけに模写を始める。同年、渡仏。パリのアカデミー・グランショミエールに学びながら、ルーヴル美術館で模写に取り組み、油絵の古典技法を研究する。これを契機に画風が前衛から古典へと一変。1938年、「パリ日本美術家展」で日本大使館奨励賞受賞。1939年、第二次世界大戦勃発のため帰国。1940年、滞欧作を発表し、春陽会会員に推挙される。太平洋戦争による戦災でアトリエと戦前期の前衛的な作品を消失する。1945年から大分県の九重山、飯田高原の連作を開始。また、1958年からは皇居周辺の風景画の連作を開始する。これらは西洋絵画の模写と並ぶライフワークとなった。1931年に古賀の自宅で知り合って以来、ノーベル賞作家・川端康成とも親交があり、高田の九重の絵に感銘を受けた川端は1952年と1953年の2回にわたり九重を来訪してその美しい景観に心を引かれ、九重を舞台にした小説『波千鳥』を発表している。1958年以来、日本橋三越でたびたび個展を開催。1965年、再び渡仏してルーヴル美術館で模写するとともに、ジャック・マレシャルに油彩修復技術を学ぶ。以後も模写への情熱は冷めることはなく、1972年、1974年、1977年、1979年、1981年、1982年の計8回渡仏を果たす。また、1971年には仙台市の委嘱でイタリアに渡り、ローマ・ボルゲーゼ宮殿にある《支倉常長画像》を模写する。1990年、長年にわたり描き続けた模写作品21点を東京・北区に寄贈。1992年、東京で死去。古賀の没後の1934年、一周忌追悼会(上野・揚出し)に参加(註1)。1944年、浄土宗善福寺境内に建立された古賀春江供養塔の発起人に名を連ねる(註2)。1953年、二十一回忌追悼会(上野・春性院)の世話人となる(註3)。1955年に発足した「古賀春江同好会」に名を連ねる(註4)。


(註1) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.89
(註2) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187
(註3) 古川智次編『近代の美術36 古賀春江』(至文堂、1976年)p.90
(註4) 図録『新しい神話がはじまる。古賀春江の全貌』(東京新聞、2010年)p.187

参考文献:
図録『日本のシュールレアリスム 1925〜1945』(名古屋市美術館、1990年)
岩瀬行雄・油井一人編『20世紀物故洋画家事典』(美術年鑑社、1997年)
『青木繁・坂本繁二郎生誕120年記念 筑後洋画の系譜』(石橋美術館、2002年)
『地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画』(東京国立近代美術館、2003年)
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