古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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水絵の象徴性に就て

 絵は何と言つても眼から入つて来るものだ。凡ての造形美術のやうに。その中でも殊に絵は眼を唯一の心感機関と〔#「感」に「ママ」の注記〕してゐるものだ。眼に訴へるべく作られたものである。我々の感じたものそのものではないので、その表現であり象徴である。自然その間に表出の間に苦しみがある。表現の全時間に於てその苦しみ─努力─はある。この表現の苦悶葛藤が少なければ少ない程、表現は内感と一致する。だから可能ならば一瞬時に表現出来るやうなものが一番善い事になる。例へば紙上に一点を打つ程な程度に於てなされ得るものならば、それが一番いゝ。真に点一つでも、それで表れが完全ならばそれでいゝ筈だが、そうでない場合、つまりそれ以外の、普通の絵と称するものの場合には、その一点の何千倍或は何万倍かの時間を要する。この時間が問題になる。「どうも善く行かない」といふ言葉は製作の場合有り得べからざる言葉であり、同時に充分ほんとにそれは毎度あり得る言葉だ。でこの場合、その全時間は矢張り一点を打つに要する時間にまで澄ませる事がたゞ一つ作品の清純を保証する。時間のみの問題に於てもそうだが、其上また材料といふ厄介なものが介在する。水彩などの場合は殊にこれが有力な介在者だ。で若しこれに関心無く、盲目《めくら》滅法に描いてゆくことは、態度として善いことだが結果は駄目になる。つまり時間的には完全だが、それは材料に不完全なのだ。材料に困ることは、先づ一例を挙ぐれば──極端な例だが、紙の地の白と絵具のホワイトとがまるでその性質を異にしてゐる様なものだ。
 描かうとする前に、だから、マチスの所謂「絵をなす感じを煮つめる」事が大切だ。殊にこれが生唐紙に水墨などの場合、充分出来上つたものを打ちつけるより他ない。それでも未だ些細な点で大きな失敗をする。何枚も何枚も描き直す。斯く煮つめれば煮つめる程、益益象徴的なものになつてゆく。不要なものをどし/\省いて行く。これは油絵などに就ても同じ事である。象徴的(写実的に対する)なものになればなる程、絵は、材料や時間を含んでゐる絵は、その本来の性質に澄んでゆく。
 不要なものを省くと言つたが、実は不要なものではないので、隠れて顕はれないものだ。然し隠れて顕はれないものでも力は表に顕はれる。
 例へば、唐紙に水墨の牡丹があるとする。その周囲は紙の地のまゝ残してある。その地はたゞの紙の地ではないので、これは省いたもので、而もこの絵の大きな力をなしてゐるものだ。
 油絵などでも矢張りおなじで、写実と言つても本当の、文字通りの写実ではない。比較的といふまでゞある。
 だから煮つめればどうしても絵は紙上に一点を打つ気持だ。他のものゝ無い程善い。言葉で言へば、「あゝ」とか「おゝ」とかいふ感嘆詞に相当する。
 野に出て山を見る。はるばるとして山を見る。胸が迫つて「あゝ」といふ感嘆詞が出る。これが絵の場合の一点だ。これで充分だ。たとへそれ以上の語句が或る一つの詩歌にあつたとするも、この最初の「あゝ」まで煮つめなければいけない。だから力は同じ「あゝ」である。
 詩の場合聯と聯との間を切る。あれは切れてゐるのではない。字面は切れてゐるが力はつながつてゐるのだ。牡丹の絵の余白或は筆と筆との間に陰見する〔#「陰」の横に「隠」〕余白と同じに。
 絵は或感慨を表す象徴だから説明や抒述の心を持たないものだ。説明や抒述を〔#「抒」の横に「叙」〕要するまでもなく、一挙に観者の心を捕へて終ふものだ。この力がないものは絵として完全ではない。
 殊に水絵は、前言つた材料の性質上、多分に日本在来の墨絵と似通つてゐるからこの煮つめる絵である。形の上からも長篇小説より詩歌に近い。説明を求められると困るものだ。それ自身一つの渾融体であるから分解はなり難い。茲に花を描くとする。描いたものは花ではあるが花ではない。絵が、一つのものが出来上るのだ。それは何者よりも離れた一つの存在であり同時に、内なる存在の象徴である。記述するものでなく暗示するものだ。だから其の中の一部を指してこれは何だと訊かれると困る。眼から入るべきものではあるが眼の了解にのみ止るべきものではない。眼には或る象として映ずるだけだ。象であつて意味はない。想念もない。そこにさうして在るもののみだ。もつと適切に言へばその象は宇宙の神秘の象だ。だから作者としてはこの神秘を数多く経験したもの程高い絵を描くのだ。それでそこまで行つてゐない者が、これは何だと訊くのは無理もない事ではあるが、そのまゝ黙つておくより仕方ない。神秘の表れは我々の言ふ「気が付く」「目が覚める」等といふもので、独歩〔国木田〕の所謂「ビツクリする」といふ意味である。余計に絶えずビツクリしてゐなくてはいけない。芸術家としての目的は、ビツクリする事の多少に依つて達せられると否との差がある。ビツクリしたその次の瞬間は、既にその神秘を心感から〔#「感」の横に「肝」〕体得した場合だ。そこに融合した場合である。そこに製作がある。

   散る落ち葉の 我ばかりぞ
   空にはふる けしき

 これは露風氏〔三木〕の詩の一節だが、これを説明しろと言はれると困る。草の上に坐つて落葉の散る状を一人見て居た。そうではあるけれど、この状景の〔#「状」の横に「情」〕外面的抒述は〔#「抒」の横に「叙」〕そうではあるけれど、この詩がそれだけを歌つたのかと言へばまるで違ふ。これはけしきとわれとの融合であり抱愛である。ぢつと坐つてゐるが勇ましい飛躍である。静かであるがはげしい。けしきであるが我で、異身同体の境地だ。そこに斯うした説明のあたはない所がある。
 これもその感慨をドシ/\書き付けたのではこの表現まで行かない。煮つめたのだ。凡てのものゝ精だけに煮つめたのだ。張り切つた形だ。詩は、詩形が短小だから尊いのではない。絵も簡単小形だから水彩が尊いのではない。作者の全部的な活力にあるのは第一必須条件だ。
 長詩形のもので優れたものもあるであらうし、絵面の大きな所謂力作で善いものもあるだらう。が、私としては前に言つた介在物の関係と、自身の肉体精神主に肉体の生活機能の強弱の関係上、小形のものを択びたい。一般に言つても、少し出過ぎた事を許して貰へば、小形を択ぶ程いゝのだと思ふ。人の心身に限りがあるからだ。間の抜けた大きなものより張りつめた小さなもの、それを択ぶ。芭蕉が

   この道やゆく人なしに秋の暮れ

と言つた句でも、徒らに書き流せば一小冊子を費しても未だ足らぬであらう。
 小形だからと言つて力が弱いものでもなく、水彩だからと言つて、油絵に比較して努力が少いの弱いのと言はれる筈はないわけだが、言論では既に誰でもそれを認めてゐる様に言ふが、実際に於ては仲々そうでないらしい。色を何度も/\重ねたり洗つたりして描いたものが努力の作で、ポト/\と色を置いて行つたやうなものが弱い等とは言はれない筈だが、実際に於ては仲々そうではない場合が多い。
 展覧会でも、水彩の数は油絵の一割二割或はそれ以下だ。水彩に善いのが無いのかも知れぬが、これはまた鑑別する人が絵具に誤魔化されてゐるのかとも思ふ。数に於て油絵の方が多い為、それを見慣れた眼がたまにほのかなチラ/\する感じの水彩に接しても、眼に止まらないで又眼に止まつても、単に弱いからといふ理由で取られないか、取られても、油絵の余白埋めに廻されるのかも知れない。
 一体、強いとか弱いとか言ふことが如何なることだか甚だ曖昧だが、表面の、見かけの強弱なら弱くて結構だ。三千枚の長篇なら傑作だが十七字の句では弱いと誰が言ひ得る。だから、そういふ意味に於てなら水彩は弱くていゝのだ。弱いのが寧ろその稟性だ。カステラを食つてこいつはカステラに過ぎないと云つたら随分変なものだと白秋氏が言つてゐられたが本当だ。
 水彩は長篇小説ではなくて詩歌だ。その心算《つもり》で見て欲しい。水彩はその稟性により、自由にして柔らかに而して淋しいセンチメンタルな情調の象徴詩だ。そのつもりで見て欲しい。



初出:『みづゑ』186号(1920年8月)pp.2-6
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.11-15
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