古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

思ひつく事など─二科と院展 新人の生活態度と其芸術観

 写実の本道といふやうな言葉がこの頃よく言はれますが仲々難かしい言葉だと思ひます。客観的にそういふ言葉が言はれ得るか一寸考へさせられます。画家が彼等の生活に忠実であり真剣であつたならば、その作る所の作品はとりもなほさず真剣であり正直であるでせう。それが私は画の本道だと思ひます。そしてそのことを措いて他に本道と言ふ言葉は無いのではないかと思ひます。ですから今日までにあつた­­­­──あるひは今日ある所の凡ゆる流派の他にあるたつた一つの境地に住む作家でも、彼は彼自身を表現してゐることに於て真剣で正直であるならば、とりもなほさず本道を歩くものとしなければなりません。
 芸術の本道とは既定された外的条件の準繩《じゆんじやう》にあるものでなく彼自身の内的表現そのものにあると思ひます。何物にも拘束されない純にして自由な、彼そのものゝ表現を措いて本道はないと思ひます。然し、その表現する主体である彼自身──客観的に言へば個性──それをも軽々しく肯定速断することもむづかしくはないでせうか。
 一体、つきつめた意味での個性などゝいふものが在るか無いかさへ疑問です。昔から自我否定の思想といふのが維摩《ゆいま》や釈迦等によつて説かれたそうですが、それ等の考へに随へば元来自我などゝいふものはこの世の中にないので、それがあると思ふのは認識不足から来る錯覚だといふそうです。結局人間といふものは生きてゐるのが間違へだといふことになりませうが、といつて自殺することも出来ない。自殺─行為─は矢張り三界輪廻《さんがいりんね》の業《ごう》を新しく一つ増すことになる。自殺といふことが既に自己を認めるからでそもそもの間違ひといふのだそうです。人間は何にも思つてはいけないし行ふことは猶更いけない無意志無行為空々寂々で〔#「寂」に「ママ」の注記〕居なければならなくなり、そうすると画を描くことなど大体最初から罪悪で高人の恥とする所になりそうです。そういつて終へば話はそれ切りです。又目下の所そんな話が出ても仲々そうとは悟り切れない。で結局下手くそな画を描いては展覧会へ出品して及落に赤くなつたり青くなつたりするやうなことになります。だからそうやかましく自我を考へないで先づ見た所その人々の稟性の相違位な所で片づけて行かないと面倒なやうです。ですから各自が正直に真面目にやれば、それが一番本当だと思ふ他はありません。

 何時も大概洋画の展覧会ではそうですが、今度の二科〔第十三回〕でも、気の附くことは題材が大抵似通つてゐて変化に乏しいことです。そんなことは下らないことだ題材などみんな同じでもよいではないかと言はれゝば、之もそれ迄の話ですが変化があつてもよいとしたら私にはその方が面白く思はれます。
 写生の時間が大体午前七八時から午後五六時までのもので、その少し前後になると描きにくいせいもありませうが、夜景─月夜とか黎明─日の出とかはこん度はなかつたようです。雨の景色も─雪はありましたが─嵐のもやうなどもなかつたやうでした。それから海の景色は可なりありますが日本の地理から関連して考へて見ると多い方とは言へません。谿谷や泉や滝などは一二点あつたゞけでした。山も頂上から俯瞰する所よりも平野から望んだものでした。それはどうしてもその場に出掛けて行つて仕事をする油絵では、一々道具を運んだりするのが面倒で、骨の折れる仕事のせいでもありますがね。
 大多数が写生画ですがその他にもつと方面の変つた空想画なども混じつてゐてもいゝやうに思ひます。物語り的なものや劇的な場面や、夢のやうなとりとめのないものや、そんな方面のものも日本画の方にはあり乍ら、洋画の方には少いと云ふより殆どないのは矢張り展覧会を淋しくするやうに思はれます。そんな画が一概に甘いとばかりも言へないと思ひます。
 それに適はしい性格の人で真剣に描かれたら、それは甚だ面白くはないかと思ひます。
 思ひつくまゝ取りとめもないことを書きました。



初出:『美之國』2巻10号(1926年10月)pp.29-30
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.20-22
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