古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

至上主義者の辯

 芸術は自由でもなければ不自由でもない。美でもなければ不美でもない。それは唯「存在するもの」なのである。青空があるやうに、河が流れてゐるやうに、汽車や電車が動いてゐるやうに。
 自由と云ひ不自由と云ふ、其所にはまだ自己が前提されてゐるが芸術の窮極に於ては自己は無い。自己が意識されてゐる間は純粋であるとは言へない。必然であるとは言へない。必然とは自己の無い「純客観」の場合である。現実より見て意味があつても無くてもそれは芸術自身の与り知らぬ所である。芸術自身には現実の何等の意識もありはしない。
 芸術は現実を遊離する。現実な意味を持たない芸術──それは宇宙のメカニズムに包摂された「一つの存在」である。春に花が咲き秋に葉が落ちる如き「そのまゝの存在」である。一見すれば出駄羅目である。然しそれが出駄羅目と批判される間は(その自己がある間)このメカニズムは了解されないであらう。これこそ輪廻の「業」である。それは我々を支配する力そのものゝ中に融合する事に依つて達せられる自己●無の〔#「●」は底本では「てへんに発」〕境地である。
 芸術は目標を其所に置くしまた其処から出発する。
 生活的に言へば(現実の)生存の最後のものである。その次ぎに来るものは何かと言へば勿論我々自身の滅亡「死」である。今少し観念的に言へば芸術はこの世とあの世の境の一線である。その先は──その先は宗教があるであろう。(此頃、宗教を現実へ実際生活へ、即ち現実的宗教といふものがあり宗教家の代議士まで出来たがこれ程驚いた無意味なことはない。恰も芸術は生活の反映であるといふ説と同じく認識不足の囈語である。)
 芸術を自由といふのは自己が批判するからである。自己が批判すれば如何にもそれは自由であるに相違はない。如何なる現実にも束縛されはしないから。然しその積極的な境地──それは出駄羅目ではないメカニズムの中の構成である、──此所に於ては自己もなく意志もなく情熱もなく冷然として無感動であり無表情である。

 現実の客観的認識はプロレタリヤ芸術論の基礎である。然しそれは何処までもプロレタリヤとしての、即ち現実社会に於ける階級認識の上の客観芸術であるといふ。けれども其所に階級があり集団がある(個人は否定されてゐる)以上は純粋なる客観芸術は生れないのである。階級の「意識」がある以上客観は不可能ではないか。(階級認識から引いて起る階級闘争も一つの客観的現実なら──それも勝つことばかりを目的にしなくてもよろしい、如何に負けるかといふことも階級闘争の一方法である。何故かなら階級闘争は階級を無くすることが目的であるから──其他人種的闘争も現実としてあるであろうし、人類と他動植物の生物間の闘争もあるであらうし、地球と他遊星との天体の闘争も認らめれるであらう。プロレタリヤはマルキシズムに宥められ好い気持であるであらうが以上のやうに考へて見ればこれから以後の仕事の方が大きいではないか。
 たとへ幸ひにして人類が宇宙を征服出来たとしてもそれが何時まで続くものであるか決して絶対ではない。まして個人として見れば、ブルジョアもプロレタリヤも君も僕も所詮は「執行猶予中の死刑囚である」といふ現実に変りはないのである。
 現実生活の種々様々の欲望が一つとなつて我々を芸術に向けしめた。芸術に憧憬を持つといふことは孰れも現実生活の不幸を物語るものである。
 現実に闘ふ人は現実に闘へ。
 現実を遊離した芸術が現実に立返るといふ事は無いのである。



初出:『アルト』7号(1928年11月)pp.27-29
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.23-25
関連記事
  1. 2010/12/04(土) 18:00:00|
  2. 評論・随筆等
  3. | コメント:0
<<超現実主義私感 | ホーム | 水絵の象徴性に就て>>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。