古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

現代絵画の動向に就いて

 今年の春の中央公論に板垣鷹穂氏が書かれた「絵画の貧困」といふ評論の中で「経済的に富裕なる絵画は文化史的に貧困しつゝある。然し経済的に貧困なる絵画には建設的な希望が恵まれてゐる」といふ冒頭で何故にそれがそうであるかを説明されてゐます。氏は先づ現代社会機構の基調をなすものとして、一、社会的技術としての機械文明。二、社会的制度としての資本主義。三、社会的意識としての階級思想と三つの箇条を挙げてゐられます。そして従来の絵画といふものがこれ等の条項に照らして見る時全く悲観的没落的な立場にあることを論じ最後に「新しい絵画は工場から」といふスローガンを掲げて生れたプロレタリア絵画こそ未来に於ける建設的な希望を持つてゐるものであると結論されてゐます。
 其所で今この三つの条項に就いて考へ進めて見ると、第一の社会的技術としての機械文明は急速に発達しつゝある機械的技術を以て大量生産的に創造し得る芸術──建築、工芸、映画等を隆盛ならしめると反対に手工業的な在来の絵画を冷遇する結果になるのは当然と思はれます。従来の絵画は一枚制作すればそれ切りで同じ作品を何枚も或は何百枚も作るといふわけに行かない。これは明らかに絵画の数の上での貧困の重大なる原因と言はねばなりません。少数なるが故に尊いのだといふ説は無意味であります。それよりも精巧なる複製の版画が大いに生産されることを希望したい、肉筆も勿論結構であるがそれよりも版画の発達の方がより社会的意義があると思ひます。
 社会的制度としての資本主義は画界の実権を画商の手に握らせて終つたと板垣氏は言はれてゐますが、これは日本の現在の状態には適用されないことです。絵画がしかし現在ブルジヨワ乃至小ブルジヨワ階級の需用品であることは確かで或る一枚の油絵はそれ一枚のみしか価値がなく従つて相当に高価であります。然し意識的にブルジヨワに迎合してゐない限り作品がブルジヨワに買はれるが故に無価値だとは思へません。
 三の社会的意識としての階級思想は必然にプロレタリア階級の絵画を生誕せしめた。これは当然なことであります。そして大いに未来の発展性のあるものだと思ひます。然し現在説かれてゐるやうな又制作されてゐるやうなプロレタリア作品のみが将来意義があるか如何かは軽々しく判断出来ないことであります。
 現代は実際に機械文明の時代であります。機械文明時代に於ける絵画は如何なる方向に進んでゐるか──機械そのものゝ形態美と機械技術の適用──それ等が私達に美術の新しい角度を与えて呉れたことは事実であります。未来派などから起つたダイナミズムの讃美など非常にロマンチツクではあつたが新しい境地を拓いたことは確かでそれから以後革命直後のロシアに起つた構成派なども矢張りロマンチツクではあつたが未来派などよりもずつと唯物的実際的で理智的になつて来ました。タトリンの第三インターナショナル記念塔の如きは機械讃美のロマンチシズムが生んだ空想に終りましたがそれ等を発足点として機械の芸術は非常なテンポで進展して来ました。レジエーは「機械の美学」で産業と芸術との連関を論じて美しいといふものは凡て人間の日常生活及び科学的現実的芸術と一致しなければならないといふ理論のもとに芸術の巧利的原則に依りその社会的役割を強調し従来の単なる装飾的絵画や彫塑を拒否しました。レジエーは映画の方面へ行つたそうですが機械の形態美よりその本質へと進んで行けばそれは当然な道だと言はねばなりません。斯くしてこれ等の方向は益々現実的実用的になつて行きました。彼は芸術家であり技師でありまた建築家でもあらねばならなかつた。構成主義と言はれる一団も亦そうであり後に出来たクロピユウスのバウハウス等もその系統と見てもよいと思ひます。今まで絵画とは寧ろ精神的理想的美的感覚の表現とされてゐたものが次第に物質的現実的機械的関係のもとに置かれるやうになつて来ました。トロツキーは嘗て「絵画とはロンドンやパリやニユウヨークを拵らへることである」といふやうなことを言つたと思ひます。
 この問題は当然現代の機械文明を支配してゐる社会的機構に関連してゐることは勿論で其所に芸術に於ける社会組織の形式的反映といふことが問題になつて来ます。芸術は社会の本質的な反映であるといふ一般的規定には異議を挾む余地はありません。従つてプロレタリア芸術の発生は社会的必然と云はねばなりません。今までの美しいとされてゐたものはブルジヨワジーによつて美しいとされてゐたものでプロレタリアートにはプロレタリアート自身の感じる美しいものがあると云ふのは首肯出来るし各々の持ちたいものを持つといふ意味で賛成であります。然しそれはそれとして価値があるのであつて決して凡ての芸術がそうでなければならないとは思はれません。殊にそれが政治的闘争の武器として第一の意義を持つといふ如き芸術論には賛成出来ないものです。芸術はブルジヨワにもプロレタリアにも如何なる強権にも支配されるものであつてはならないと思ひます。或種のポスター如き漫画の如き作品のみでは政治的社会的角度よりの価値であつて芸術的美的価値ではないのです。政治的社会的闘争の現実のみを第一のプロレタリア芸術の対象とする所に偏ぱな〔#「偏」に「ママ」の注記〕単調な公式的作品が生れるのだと思ひます。芸術は現実の反映である──しかし当然それは芸術的反映であつて他の如何なるものであつてもならない。花の絵を見てそれが植物学上どういふ間違ひがあるかを点検するのはするものゝ勝手ではあるがそれが作品の第一の価値を左右するものではない。人体の描写に解剖学上の如何なる欠点があるにしてもそれも第二義以下の問題である。プロレタリア芸術が政治的社会的反映を第一義のもとにする所に誤謬があると思ひます。雅川滉氏の所謂「現実の切実と反映の切実」との認識の差別は当然大切である。「武器の芸術」の如き明らかにこの両者を顚倒したものだと言はねばなりません。
 芸術は何所までも現実を芸術的角度から見る可きだと思ひます。現実は素材です。プロレタリアもブルジヨワも犬も鳥も飛行機も機関車も軍人も家鴨も軍縮会議もストライキも等しく芸術上の素材であります。私達は出来るだけ冷静に客観的にそれ等の素材に対したい。或人はそれを芸術至上主義といふ。ハウゼンシユタインだつたか「芸術のための芸術といふ立場は作者がその環境との矛盾の場合にのみ起るのであつて真の芸術は社会の為めの芸術でなくてはならない」と言つてゐますがこれはどういふ意味でありませうか。若しこの言葉をこう解釈出来ればこれは肯定出来る。即ちこれを具体的に表はして「向ふへ行きたいと思ふ人はこの場合のその人の環境の矛盾の証左である」と或は「水を飲みたいといふ人はその場合その人の状態との矛盾の場合である」と斯う解釈するなら宜い。一言にして言へば「人が生活してゐるといふことは彼の矛盾の表徴である」といふことになれば理解され得るが極めて漠然とした結論となつてこれならば別に至上主義者に限つたことではないといふことになる。
 プロレタリア芸術論は然し未だ発展の途中にあるものでそれは日を追ふて確固とした地盤と確信と方向とを明確に把握しつゝ進展してゐる。殊に文学に於て眼覚ましい飛躍を成しつゝあることは万人の認むる所だと思ひます。然しこの方面でもその政治的価値と芸術的価値との関係は色々と問題にされたやうであるがプロレタリア芸術論の巧利主義的立場からは政治的イデオロギー第一主義に置く所にそれはそれとしての意義もあらうがそれと全然無関係に別の立場に立つ芸術も存在する可きであると思ひます。
 最近向坂逸郎氏の「インテリゲンツイア」論の中に画家をも含めて論じてあつたがそれに依るとインテリゲンツイアを三つの層に別け、上層のものは少数で社会的役割に於てブルジヨワジーに移入し下層のものは多数でそれはプロレタリアートへ移動する。中層のインテリゲンツイアといふのが最もインテリゲンツイアらしいインテリゲンツイアであつてこれが一番浮動性に富んでゐるために始末がわるい。例へば大震災の時には社会主義者を撲滅しやうといふ立場に立つし米騒動の時には農民の味方になるといふ手合である。元来知識的で冷静でよく理解が届くために社会的事情に対する時所謂人道主義者になるもので又事変が起ると一朝にして反動的立場に立つたりする。これが一番問題になる可きインテリゲンツイアであるが元来インテリゲンツイアなるものが資本主義組織の特産物であるからプロレタリアの世界になれば必然インテリゲンツイアといふ中間の浮動層は無くなるものであるといふやうに云はれてゐたやうだが果してそうであらうか、プロレタリアの世界に於ては現在のやうな存在の智識階級層といふものは無くなるかも知れないが智識階級といふそのものが持つてゐる本質的使命──それまでが無くなるものであらうか、それは疑問だと思ひます。
 初めの題に返つて板垣氏の言はれる「文化史的に貧困してゐる絵画」といふのは如何なる絵画であるか明確でないが現代の絵画の凡てが文化史的に貧困してゐるとは思へない。私の思ふ所では文化史的に貧困な絵画とは現在のブルジヨワ自然主義とその系列にあるもの及びプロレタリア美術である。プロレタリア美術には建設的な希望があるといふのは現実的社会的に多数的な建設の意味であつて決して文化史的建設の意味とは解されない。何故かならば現在のプロレタリア美術は現実的政治的美術であつて芸術的文化的基礎を持たないからであります。文化史的価値と社会的現実的価値とは截然と区別されなければならないと思ひます。
 今日以後の絵画は如何なる形式内容を持ち如何なる方向に進むであらうか。それは充分に慎重に考慮される可き問題であらうと思ひます。



初出:『クロツキー』6号(1930年9月)
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.32-37
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