古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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写実と空想 或は具象と抽象

 こゝに具象といふのは感覚形態であり、抽象といふのは観念形態である。
 絵画に於ては如何なる現象──客観的現実的対象と主観的精神的対象──も、作品としての本質は作家の認識の象徴形態に外ならぬ。
 その対象と象徴との関係は或る場合に於ては、例へば「愛」といふ抽象的対象の場合に於て、或る作者は平穏なる野原に乳児を抱く母親を描く場合もあれば、又或る作者は全然外界の現実に形象を借りぬ抽象的形式を採る場合もある。或はこの両者の中間に位置する形式もある。
 然し如何なる現実の形態の写実と雖、純粋客観といふことは思惟の上の存在としてあるのみで絶対主観の摑んだる一つの現象である。人間の精神的活動は現実の客対を自己の中に把握するものであるとすれば、客観的対象がそのまゝ作品の具象にある事や、抽象を具象にする場合の問題は、それだけでは芸術作品としての価値は決定出来ない。
 そこに作品の形式の問題があるが作品でさへあれば如何なる作品でも芸術作品とは言へない。我々の単なる感覚的表現がそのまゝ芸術とは言へない。例へば酷く擲られた場合に「痛いツ」といふ叫び声は詩ではない。また夢を見てその夢のまゝの表現も画として芸術にはならない。並木道を一人の女がこちら向きに歩いている。画題は「散歩」といふ。これは視覚を以つて経験したる風景で、成る程美しい画ではあるが色、調子、遠近、動静、量、質、それ等のものを如何に完全に表現してもそれは単なる現実的視覚的存在である。これ等の形式は現実の存在形式であつて我々の精神の希求する本質的なる芸術とは言へない。何故ならば作品の存在形式はそれ自身では芸術の「当為」の世界への縺りを〔#「縺」に「ママ」の注記〕持つものではないからである。こゝで作品の形式が観念的存在としての形式(作用形式)と、感覚的存在としての形式(存在形式)とに別たれる。感覚的存在は現実の中に於ける受容的存在であり観念的存在は新しい現実の創造的存在である。
 現実の作品の対象が主観的空想的であつても、客観的具象的であつても等しく、作品に於ては観念形態(形式として作用形式)としての把握を感覚形態(形式としての作用形式)として表現さる可きものである。即ち芸術は美ではあるが但し美は必ずしも芸術とは言へない。
  芸術──本質的存在──先験的価値であり概念的実在である。
  作品──現実的存在──経験的価値であり感性的実在である。
 故に芸術は永遠的存在であり作品は時間的存在であると言へる。
 世の所謂写実主義と言はれる作品は多くは現実の感覚的表現に止まりたゞ技術としての美術品である場合が多いが、これは芸術としての存在価値を持たないものである。
 現実の受容的態度、即ち写実主義の作品でも作品は出来る。然し出来るといふことゝ作るといふことは、たとへ結果に於て相似することもあるが、結果的に出来るといふことゝ原因的に作るといふことはその感性より思惟の行程に於ける相違を考へなければならない。結果的に出来るといふことは所謂偶然のものであつてそれは作者の芸術的衝動に止る。そこに作者の作るといふことの意図、計画、の意識的方向が判然と働かねばならないことになる。
 芸術の本然の姿は我々の現実の可見の世界にないものである。それは我々の当為の世界であり先験的存在である。それを現実の可見の世界に表現するに如何なる方法を採るか──その具体的技術的方法論が必要となる。前に例した如く夢が夢のまゝに表現されたもの──それは方法として無意志的であり無秩序であり無方向であり一個の自然現象としての模倣的存在である。
 一個の作品は作者の認識を基礎として作られたる思惟の観念に於ける完全なる秩序ある意識的方法に俟たねばならない。



底本:『ヒューザン』12号(1932年4月)
初出:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.46-48
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