古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

研究所第七回新年会に就て

 「斯う脚本も定つたし役割も定つたから、もうそろ/\白《せりふ》を覚えやうぢやないか」。こんな会話が研究所の一室に取換はされてゐたのは丁度十月の下旬頃でした。
 何でも例年に劣らぬだけにやらうと云ふので、それからといふものは殆ど毎日白を暗記する事に勉めました。寄ると触ると芝居の話ばかり出る様な仕末ですから芝居の当事者(勿論皆がその当事者でしやうけれども)殊に俳優は各自に真面目にやらうと思つてゐるのに、周囲が又│恁那《こんな》│風ですから猶更無責任な事はしてならぬ様な気がしまして道を歩く時研究所の往き帰り殆ど絶えず口の中で「おい此端へ担ぎ込んで呉れ給え」「助役さんの家へ担ぎ込んでかまひませんか」とか一生懸命やつてゐました。
 白を覚えて終ふと、今度はやはり研究所で立𥡴古を始めました。こいつが随分面倒で(それだけ面白いのです)「僕は此時此所から出るか」「いや其所から出て来てはいけないよ」「でも此処からの方が動き易いよ」「だつて其所は君ストーブだよ」……なんてそれは面白いものでした。
 誰か舞台監督をして呉れる人があれば好いのですが、何分自分達が銘々勝手にやるものですから、自然不統一が生じて面白くないとも感じました。
 けれども習ふより慣れろとかで、だん/\各自の扮する人物の性質等が分つて来ると、白のアクセント等も、面白くなつて来て、益々興味が湧いて来ました。
 それから絵葉書の事ですが、これは新年会当日、則ち一月二十五日に出席のお方に当座で上げられる様にと、一週間ばかり前に撮影する事になりました。バツクの方は赤城さんのお骨折りで、感じの好いのが出来ました。それも何や彼やで、忙しいものですから、丁度写真を撮る当日の晩方になつて漸々出来上りました。早速舞台に箝めて見て扮装の出来た順序で舞台に立ちました。一番最初に「パリアス」を写して最後に「人形」を撮りました。
 強烈な、マグネシウムの光がパツと私達の目を眩ませると、これで最う写真は出来た訳です。
 それから後といふものは、眼の廻る程忙しいんです。方々から衣裳を借り集める、道具の修正をする、プログラムを注文する。プログラムの表には小泉さんの彫られた埃及《エヂプト》模様が、気持よく刷《す》られました。其他緞帳も拵へねばなりませんでした。丸山先生の洋服をお借り申して来た人もありました。新年会の前日二十四日は朝から曇つたり降つたりで、ほんとにどうなるかと心配しました。夕方から又降りだした意地悪い雨は其晩休むまで止みませんでした。でも翌二十五日にはすつかり降り止んで曇り勝な空ながら愉快でした。朝早くから舞台を飾つたり、舞台𥡴古をやつたり、絵具の粘り付いた板の間を雑巾掛をしたりなんかする内に、丸山氏、木下春子氏、白滝氏、戸張氏、茨木氏などお見えでした。階下《した》では例の様に一時頃から月次会が開かれました。それが済むと直ぐに皆が二階(舞台は二階にあるのです)へ上つて、さ程広くもない観客席はもう一杯になつて終ひました。何時の内にか先日の絵葉書とプログラムは皆の手に持つて居られます。それから階下の室は直ぐに紅茶店になる。最初に上場される「パリアス」は最《も》う、すつかり仕度が出来て、寺田さんの考古学者と舟木さんのアメリカよりの帰朝者とが「早くやれば好いになア」。他人《ひと》に見られない様にと大きな幕みたいなものを被つて二人が二階へ行くと暫くして幕が開く。眼を丸くした観客諸君の拍手が起る。十月からこのかた、長い/\白を暗記した両君の姿が明く照された電灯の下に浮び出ると、シンとなつた観客の眼は、どんな微細な挙動をも見逃すまいとして両君は視線の集点になつて終ふ。
 更に階下の一室では水野さんと後藤さんとが、此又忙しさうに受付の方を預つてゐられました。一方楽屋でも、此次の「轢《ひか》れし駅夫」に登場する人達が盛に化粧をしてゐる。金関さんは砥《と》の粉を塗つて若き駅夫に扮する。小泉さんは矢張りお白粉や砥の粉を塗つて老駅夫に扮する。
 湯原さんは又茶屋の娘お夏になる。それに私の助役。尾崎さんや相田さん達も手伝つて下さいました。
 とかうする内に小さな劇場から又拍手の声が聞える、今終つたなと思つてゐる内に寺田さん達が下りて来られる、私達は舞台裏まで行つてゐる内に、川幡さんの尺八がありました。それが拍手の内に終つて幕が開くと又拍手が起る。
 「おい此所へ担ぎ込んで呉れ給え」といふ私の眼に丸山先生や白滝先生のニコ/\されたお顔がチラチラ見える。これは𥡴古が不充分だと思つてゐたものですから猶更白がつかへる、気はあせるといふ仕末です。どうにか終つて幕になる。三幕目は「影」で、これは「死の勝利」の後日物語の様に出来てゐるものでした、小山さんの扮したジョルジオ・アウリスバの影と、寺田さんとヒボリタ・サンツオオの影とが伊太利の七月の夜に、真黒に茂つた橄欖《かんらん》の樹の下で過去を追想して過ぎ去つた美しい歓楽の夢を辿る様な筋でした。電灯の笠から青色の巾を垂れると、凡が青い光に包まれて、物悲しい様な、又何処となく物凄い様な空気が漂ふて、如何にも死後の二人が再会して物語る夜を想はせられました。一番おしまひに喜劇『人形』をやりました。金関さんの玩具屋の主人コルネリウス。湯浅さんの主人の伜ベンヤミン。望月さんの甥ハインリヒ。私のベルタ。これは可成《かなり》𥡴古が積んでゐたものですから「轢れし駅夫」程てこずらずに行きました。ハインリヒとベルタとが手を握つて「さようなら」を言ひ捨てゝ出て行くと、銀の縫ひとりのある黒い緞帳が静かに下りる。
 これでお芝居は終りなのです、それからは、榎本、寺田、加藤さん方の長唄があつたり、金関さんの落語があつたり、浅野さんのマンドリーン等これで新年会は愈々終りました。
 ほんとに楽しみにしてゐた新年会が終つたとき、がツかりした様で暖いお湯で顔のお白粉を洗ふとき何だか勝利の悲しみとでも言ふ様な感が興りました。
 そこいらに散らばつた衣裳や靴や化粧道具を片づけて、風呂敷に包んで胸に抱いて、人通の稀になつた通を神楽坂まで帰つて来ました。
 そして何にも考へずに無意識に疲れた体を持て余した様に歩いてゐると、あの蕎麦売の滅入る様なチヤルメラの音を聞いた時│吃驚《びつくり》する程神経を刺撃せられました〔#「撃」に「ママ」の注記〕。そして「力を入れてドシ/\歩け」と促す様にも聞かれました。
 冗漫なとりとめもないものを書いて終ひました。これで筆を擱きます。



初出:『みづゑ』109号(1914年3月)pp.29-31
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.170-173
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