古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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早春随想─麗日風景

 現実といふ我等の生命の中での一形式はまた他の現実(形式)によつて変貌させられる。時間は無限だ。昨日のことは今日は無い。時間に於ける凡ての存在が動いて行く。何処へ行くか、現実は何処へ行くか! 其所に我等の極限概念に於ける「無」がある。永遠の「無」である。現実の真の姿はそれより他に無いであらう。
 人々は、否、凡ての現実の存在は、この透明な大きな固体の風の屏風に倚り掛つて微笑してゐるのではないか。我等の現実の中の真は永遠の真の中の一節であり、天上の星の瞬《またゝ》きに等しい一瞬である。

 現実の一瞬の時間に於てこの世界に十六億の人間動物が生きてゐるとして、それ等の一人一人の生活なり、思想なり、感情なりがどんなものであるかと考へて見る。国々で人種も異り人情風俗も千差万別だが、この現在の一瞬に同時にそれ/\生きて動いてゐるのである。街路を歩いてゐる人、電話をかけてゐる人。鳩と遊んでゐる人、舞台に出ようとしてゐる人、汽車の中で眠つてゐる人、食事の人、肩を組み合せて舗道を行く学生、愛人を待つてゐる人、世界平和の或は戦争の重大会議に集る人、軍人、市民、詩人、凡ての人が同時に生きてゐる。然し考へて見ればそれはほんのひと時の後に壊れて終つて形態を変へねばならない。人間動物ばかりではない。この世の凡てのものがどうなる心算《つもり》で生きてゐるのか。太平洋の波、婦人雑誌、鉄道線路、海の魚族、草木の花々。生きてゐると言ふことはかういふことであるか。死ぬといふことは──しかしそれは決して滅亡ではなく、単に現実の一形式が変つたまでのことであらう。

 三宅やす子女史が突然亡くなられた。私は胸の真面《まとも》に鋭い球を受けたやうな気がした。最早我々の肉眼で今までの姿の女史の御目にかゝることは出来ない。女史は私の一番慕はしい心で対《むか》つてゐた人であつた。一度ゆつくりお話がしたいと思つてゐたのに、今こんなことを思ふのが如何に愚かなことであるかわかつてゐても、人間動物の悲しさはそれを予知することが出来ないのである。けれども私は思ふ。これは一時のお別れだ。何時か何所かでお逢ひ出来ると思ふ。
 誰かゞ言つた。人間はみんな執行猶予の死刑囚だと。それは人間動物の現実を言つただけのことで、死ぬといふことは唯形式が変るだけのことであり、言ひ換へれば生れることである。
 私は朝眼が覚めると今日の生を思ふ。変化のない昨日からの引き続きの形式。時にはそれの変化を欲しい時もある。肉体の苦痛さへなければ変化することも好いと思ふ。変化転生といふこと、今度は私の現実が梅の一枝になるか、或は藪柑子《やぶかうじ》か馬酔木《あせび》の花か、または泥の中の鰌か──何の形式をとつたにしてもそれも亦一瞬間の世界であらう。
 夜の明ける頃、夜廻りの拍子木の音が止むと寝室のガラス窓が白む。家が小高い台地にあるので夜中でも電灯が無くても室は薄明るい。今二月の末、六時にならねば夜は明け切らぬ。薄明《うすあかり》の中で遠い山の手電車の音と何かの荷馬車の音が最初に聞える。今日の一日が始まる。私は自分で自分の体を撫でゝ見る。しかし私はぼんやりした霧のやうな憂鬱の中で起きあがる。階下で家人が仔犬に話をしてゐる声が聞える。昨夜も徹夜をしたのだと思つて私もつとめて早く起き出る。
 窓から暁明の霜の景色が見える。大きな二本の銀杏が空を突くやうに聳え立つてゐる。すつかり葉を落した木は冬の姿の裸のまゝで蒼白い肌を寒々と薄明の大気に撫でられてゐる。その左の方から丸い真紅の太陽が昇つて来る。まるで光のない赤い球である。私は煙草の煙を眼で追ひながら、冷い透き徹《とほ》つた空の方へ顔をあげる。その頃になると近所の家々でも起き出して人声や物音が繁くなる。
   静やかに輪廻生死《りんねせいし》の世なりけり。
   春来る空の霞してけり。
そんな歌を思ひ出し乍ら遠い所と近い所とを考へるのである。



初出:『文学時代』4巻4号(1932年4月)pp.26-29
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.209-211
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