古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

 嘗て誰氏かの書かれたもので読んだ記憶であるが、この現在の社会の大部分の人が毎日その外出先から──多くはサラリーマンであるが──それが殆ど同じ時間に、同じ道を、各自の住家に帰つて行く。それが一向不思議さうな様子も見えず極めて平然と歩いて行く。昨日の道も今日の道も、昨日の家も今日の家も大体同じ道であり同じ家である。これは不思議なことではないだらうか──といふやうな感想だつたと思ふ。
 考へて見るとなるほど不思議な話である。それが日常の習慣となつてゐれば別に何等の不思議も感ぜず、退屈をも通り越して無感覚になつてゐるのだらうが一寸考へるとこれは随分驚く可き現象である。昨日出勤した会社も今日のそれも同じだといふことは不思議と云へば不思議に相違ない。しかしこれに類した馬鹿気たことは我々の現実に数へ切れぬ程あるだらう。人間の顔が毎日大抵同じである。家に帰つて見ると昨日と同じ妻君の顔がある。よく見ても見分けの附かぬ程同じ顔である。これは驚く可きことだ。
 顔のことゝなると私は自分で驚く程知人の顔を忘れる。顔と名と人とが同時に一つとなつてそれを何時までも覚えておくことは仲々むづかしい。街頭などで或は何所かの会合などで、親しく話しかけられても、私には一向それが誰だつたか思ひ出せないで困ることが多い。これは私に限らず大概の人にさういふ場合はあると思ふが、私にはそれが実に屢々で極端なのである。そのために随分いろ/\な人に失礼してゐると思ふが自分ではどうにも仕方がない──さういふ人々に対してこの際こゝでお詫びを申します──。
 顔といふものは較べて見れば少しづゝ各々違つてゐるやうだが、時たまにひよい/\と現はれて来る顔といふものは一々差別がつき難い。それでゐて一人一人の人間が違つてゐて感情なり思想なり性格なり、みんな同じではないといふのだから困つたことである。人と話してゐる時ぢつとその人の顔を見てゐると愈々不思議に思はれて来る。この顔がこの人で──さう思つて暗記しやうとする。仲々困難なことである。
 それにしても人間の顔がみんなお互に似過ぎてゐるのが欠点だらうが、しかし対談してゐるとその同じ顔がいろ/\なものに変つて動いて来る。肥つた顔、瘦せた顔、赤い顔、白い顔、浅黒い顔、それが山のやうな形に動いたり、野原のやうに広がつたり、鶏のやうになつたり、小川が見えたり、大きな魚が泳いでゐたり、魚と川岸の花との会話のやうなものが聞えたり、かと思ふと人間らしく口があつて煙草を吸つたり、嵐のやうな、森のやうな、おかしくなつて笑ひ出したり……
 一体我々の肉体といふものがえたいの知れないものである。煙のやうなものかと思へば、崩壊した山の土塊のやうでもあり、肉の厚い植物の大きな丸い葉のやうでもあり、茶褐色の水溜りであつたり、釣り下がつて汗かいたシヤボンであつたり、美味いやうなまづいやうな、好きなやうな同時に嫌なものゝやうな、消えたり隠れたり沈んだり実に不可思議極まる存在である。
 誰かに逢ひたいと思ふ時があると以上のやうなモヤモヤしたもの想つて躊躇する。人間に顔や肉体がなかつたらどんなに気持が晴々とするだらう。私自身人々の眼の前にえたいの知れない顔や肉体を曝して歩いてさぞ迷惑を掛けてゐるだらうと思ふ時出来るだけ人に逢はないですむやうにしたいと願ふ。
 人間の顔が恐ろしくて人に逢へなくなる時私は犬達と話をする。犬は人間よりも直接に単純に話が出来る。
 真暗な室で眼をつむつて漆黒の地球儀を廻して見給へ、そしてその透明な表情を見て見給へ──そんな言葉を想ひ出す。



初出:『美術新論』7巻10号(1932年10月)pp.70-71
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.214-216
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