古賀春江資料室

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第六回日本水彩画会展覧会所感

◆何時の時代にても、如何なる場合にても、只徒らに外形の尨大なるもの、形よきもの、又いさゝかは其時代に迎合する底のものが、社会衆愚の称讃を得る者の様に思はれる。等しくこれは芸術の世界に於ても間々見受けられる悲惨なる現象である。これは一団体の仕事にのみ止まらない、一個人の活動に於ても然りである。内容の空疎なるもの程外形の優美壮大に腐心する。此卑しい成心に社会は動《やや》もすれば欺かれ其燦爛たる外形に眩惑され終るのである。是が大なる誤りである事は茲に呶々《どど》する要は無い。我等は唯我等の芸術的良心の命ずる儘に活動すれば宜いのである。我等は衆愚に向つて法を説く説教者ではないのだから。
◆言ふまでもなく我等は形式よりも内容を、外への浮動よりも内への潜行を、饒舌よりも沈黙を尊しとするものである。然し展覧会といふものゝ性質上、全然社会を度外視するといふのは噓である、公表したる以上はその評価を得たいのは当然であるが千の盲目の嘲笑より一の具眼者の顰蹙《ひんしゅく》を恐れるものであるが故に、形様に依つて衆愚を驚かす愚をとらず何所までも質実に、赤裸々に、素直なる公表である。真の意味の芸術的進展は一に斯る態度に俟たなくてはならない。
◆回を重ぬる事六回に及んだこの水彩画会展覧会を、その当初に比較すれば、内容形式共に大いなる進展を為した事は万人の等しく認むる所であらう。「真」は唯一なもの、「誠」は勝つ。これは私の以上の言の過誤ならざる事を証して余りある事と思ふ。今日これを、広く文化史的見地よりするも、明治大正の絵画史の一部を飾るべき価値は充分である。
◆扨て個々の作品に就て感じた事を簡単に述べる。
 先づ丸山晩霞氏、石井柏亭氏、南薫造氏、三宅克己氏、中沢弘光氏等に就ては既に定評もあり、私が茲に更めて云はなくともであるが、丸山氏の山岳に対する親愛は年と共に、益益深まるかに思はれる。私はヒロイツクな氏の性格が山岳を対象とする事を当然な事と思ひ微笑を禁じ得ないものである。石井氏と南氏とは同じ壁面に隣り合つて陳列され、面白いコントラストを為してゐる。智に秀でたる世界と情に勝れたる世界と私は両者を有り来りのハカリに掛ける愚を避けるが、南氏の温情豊かな諸作には牽きつけられる所が多い。三宅氏の小品には瀟洒な版画趣味を見るべく、中沢氏の作また懐しき詩情を汲む可きものである。矢崎千代二氏は支那写生五十九点を特別陳列として出品されたが、孰れも氏一流の色彩の華美なる事に眼がつく。赤城泰舒氏の出品は小品二点であるが懐しき情味豊かなものである。氏を称讃するものも氏の片暈《かたぼか》しに就て非難する事があるがそれは外形のみに囚はれたる観者の不徹底なる観察である。氏の片暈しは物体の容積を表はす手段と見るよりは、小菊の花弁の尖端にまで震ふ作者の感情と見る方が至当である。手段でなく心其ものである。氏はミケランヂエロやレオナルドの世界を希はなくとも宜い、尊い氏自身を守れば宜いのである。
◆望月省三氏の諸作は何れでも皆同じ様な感じを与へる。極めて大摑みな表現法だが現代人の感情は今少し繊細を喜びはしないだらうか。森幸一氏の作は嘗て氏の持つてゐた純真素朴な心と牧歌的情調とが稀薄になつた様に思はれる。私は氏の以前の作の方を好む。寺田季一氏は「花」と「春光」との二点を出してゐるが従来の氏の理論的作より一歩を進めた観がある。神秘は必ずしも朦朧でない事は明らかだが、芸術の神秘は我々の数理以上のものである事を思ふ。私は氏の将来に期する所多いものである。後藤工志氏の今度の作は氏の作としては佳作とは云へなからう、例《いつ》もの氏特有の確かさが薄い。唯「池畔の紅葉」に揺ぎのない氏が見える。小泉癸巳男氏の作中では「夏の公園」に好い感情を唆られる、「静物」は器用な作だが氏の分野では無い。河上左京氏の四点は特殊な魅力を持つてゐる。切実なる現実凝視と透徹せる色彩の観察とは感嘆に余りある。殊に「自画像」「静物」は感銘が深い。吉崎勝氏の作は、氏の「人間」に接すると「作品」に接するとでは僅かの一致点を見出す外「人間」と「作品」との逕庭隔離をカナリ強く感ずる。芸術の世界に遠慮は不要だ、妥協は醜い、今少し大胆にやれないものであらうか。平沢大瞕氏の作は作為の痕が余りに見え透く。氏の器用さには驚くが器用といふ事は性格の一技能であつて何等芸術的価値の無いものである。構図を所謂新しくとする試みも甚だ常識的である。私は聡明なる君の一考を希はずにはゐられない。小山周次氏の作は或る安泰さを与へる。而も氏に於ては安泰より倦怠に観者を導く多くの大家に見る如き情味の涸渇は無い。此所にある美は清明素純な氏の性格の美しさである。永田二郎氏の作は懐しく優しい。加藤義助氏の作も亦気持の宜いものである。其他一々挙ぐれば長くなるのでこれだけにして置く。
◆水彩画振はずとか、水彩画は油絵に到る階梯とか物知り顔な世人の言を其儘に受けて、或は左様でもあらうかといふ先入主観に圧せられてゐる食はず嫌ひな人の来観を希望して筆を擱く。(八、四、八、読売新聞より)



初出:『読売新聞』1919年4月8日
   『みづゑ』171号(1919年5月)pp.27-29
   『絵画清談』7巻5号(1919年5月)
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.226-228
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