古賀春江資料室

洋画家・古賀春江(1895-1933)のデータベースを制作中です。

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造型第一回作品展覧会を観る

 造型同僚は曰ふ「芸術は滅亡した。造型がそれに代つて生れた」と。
 この提言を承認する前程として〔#「程」の横に「提」〕、芸術及び造型なる言葉の定義を尋ねて見る必要があるが、「アトリヱ」三月号に於ける岡本唐貴氏の「造型とその意義に就て」なる論説の中にも明確なる定義を示されてゐない。が岡本氏の右の一文は未だ論考の中途にあり随つて今後の解説を待たなければならない。故に茲ではその名題への質疑は保留として私一個の愚見を叙べる。
 芸術──造型、二者は本質的に厳然差別されねばならないか、「芸術」を「我等の生活に於ける凡ての情緒の美的表現である」と仮定したならば、而して絵画彫塑を称ぶに従来我等の「造型美術」と称するならば、「造型美術」は、言葉の許す最も広義なる解釈に於て「芸術」なる一語に包括されないであらうか。茲に言ふ芸術とは、ブルヂヨアのそれ、インテリゲンチヤのそれ、プロレタリヤのそれ、各〔々〕の芸術を包含しての謂である(この三様の分類は前記岡本氏の論説中に於ける社会心理の三様の区別に依るもの。)
 況んや、こゝに陳列されたる作品の「形式」が、機械生産品でなく手工業品でなく、完全に「絵画」及び「彫塑」であつて他に何等実用的目的を有せざるものであれば、これ等を「造型美術」として「芸術」の範疇に入れて観賞することは差し支へないと信ずる。而して尚ほ私は、会場の入口壁面の設計装飾や吉田氏作ポスター等をも同じ立場よりして観賞する。──(工場や機械や停車場等如何に屢々時代的優美或は壮美の感覚を持つて居るか)──
 或は同僚の言があるであらう。譬へその形式に於て過去のそれと相似の点ありとするもその製作の全意識内容に於て断然二者は差別さる可きだと。
 それは真実である。一例を、吉原氏の「顔」(60)に採ればそれは外形の相似に於てドランの或る作と共通なる或るものを持ち乍ら作そのものゝ目指す所は全然別である。彼の、物の重量、容積、均衡等の表現を、色彩の渋みある洗練と、それを有効ならしむる筆触との調和的な完成に対して、是は、それ等一切の放棄に依つて或る全然異つた感触を持つ。朱と紅の顔にエメラルドの背景、頭髪の紫、三色の色度は極度に高調され各自その最上を働いてゐる。然も我々にその不思議なる透徹された多義的なる美的快感を与えることに於て確かに我等の芸術であると云ひ得る。
 意識内容は各時代々々に異つて来た。王朝時代の、封建時代の、資本主義時代の。そしてそれが当然である。而してそれ等各時代の異る各表現を我々は芸術の名に総称して来たのである。然しながら、私自身にとつてその名称は孰れでもよろしい。唯眼前にある如是の精神、如是の行動──で充分である。

 会場の全般に亘つて或る共通したる表現があると云ひ得るが、各作品に就いて見れば自ら作者の個人性に依つて特色附けられてゐる。総括的に、その表現形態に於て、ビザンチン式顔容と、ピカソ的形態と、泥絵的色感の共通する者が大部分で、更に加ふるに、チリコがあり、ドランがあり、メンセがあり、ルッソウも、グロツスも、シユリンプもアーキペンコもある。
 それ等が真実に、無雑作に、雑然と、一見無秩序に同居するが、それは不思議に現代的魅感を〔#「感」に「ママ」の注記〕唆る所の効果的表現に達してゐる。何故ならばそれ等の様式の綜合に於てよりも以上にその内容に於て時代意識の鋭角的体験だからである。これ等の作品に依つて、現在我等の環境に何が没落しつゝあり、何が勃興しつつあるかを見逃すことは出来ないであらう。
 私はこの春以来、数度の上野の展覧会に於て極度に退屈な腫物を持て余したが、この会場で見事切開手術を受けたる如き快感を覚えた。以下、各作品に就ての概感──

 推薦出品である寺島貞志郎氏の二点中、「裸体」は力作ながら全体の効果が弱い。ヨロ/\の線と面とが部分的になり過ぎたか。「母と子」は無難だが色彩の階級を一息緊めたら更に美しかつたであらう。
 浅野孟府氏は確定的地歩を占めつゝ進展しつゝある。彫塑「赤い顔」の端正と滋味と量感の豊富さ。「黄色の立像」の力感──殊にその顔面と、太腿より下肢に至る豊麗な直線。トルソー二点は不思議な温情に富む。油絵「裸体と背景」はその人物の色塗りに於て躓《つまづ》いたと思はれる。画布のせいか。小品「青い帽子の首」と「二つの立像」が勝れてゐる。
 吉田謙吉氏のポスター五十枚街頭に吹き鳴らすクラリオネツトか。十字街の感覚信号か尖鋭雋敏なる感触に依つて非凡の資性を見る。
 岡本唐貴氏「高台に立つ二人の女」は場中の最大作である。灰色の裸体と木綿色キモノの女の立像。刃物の如き片雲、櫓が見え家が見え、ウルトラの池に橋、これ等が実に「存在」である。ルツソウの「アポリネイルとミユーズ」を想起する。彼より此は一層複雑なる単純であり非諧和的諧和である。遠望に依つて一層美しさを増す。桃色のジヤケツ──実に簡単に桃色なる──ウルトラのズボン、模様ある靴下、而してインヂヤンレツドの顔と手、「彫刻師浅野孟府氏の像」である。セザンヌもピカソも誰も斯ふは描かなかつた。範を求むれば田舎の祭礼に見る「のぞきからくり」の看板か──それも一層色彩的で発情的である。「一人の女」の現代的艶冶と勝れた詩的情趣。(31)、(32)の顔、殊に(29)の顔は善い。
 矢部友衛氏は「群像」一点を列べてゐる。三人の頭はそれ/″\赤、青、黒。レコードの瞳。粗大のやうでありながら全体の大きな力を失せぬ。物にこだわらぬ性格の表れか。近くロシヤへ行くといふ、健闘を祈る。
 吉原義彦氏はその色感に於て優つてゐる。透明朗徹なる感性。「楽隊」の桃色、エメラルド、白、レモン、朱、紅、コバルトの交錯は真珠色に輝く。ヤモリの手を広げた如き深紅の裸体「飛ぶ女」の美しさ。桃色の家、エメラルドの屋根、あかりのついた窓、深いコバルトの空、「家屋」は好個の抒情詩である。「音楽師等」その他総じて深い色彩の強烈なる対比的効果と形象に於ける曲線と直線、鈍角と鋭角との処理に就て特殊な才能を示してゐる。
 推薦出品の山上嘉吉氏の三点は、総明なる形態の設定と、白と黒と白緑の色感に就て、又流暢なる弧線、直線の交叉にに就て考慮し計算してゐる。
 吉邨二郎氏の小品五点は、数に於て面積に於て甚だ物足らぬ。而も旧作に属する由。その点甚だ遺憾に堪えないが、これ等の小品に就て見ても、就中「裸体」「音」の二点は善く氏の特性を発揮してゐるものと思ふ。
 神原泰氏は既に過去に於て充分に氏自身の世界を開拓してゐる。五十号の連作「マリヤとキリスト」五点。氏の作としては比較的具象的実在の表現を採つたるもの。抽象的なると具象的なるとを問はず、一貫したる抒情的純情の表現である所に氏の特殊な世界が開かれてゐる。(21)の白地に黒線、同じく(22)の薄藍色に同色の濃藍の線は照応して共にそれ/″\の好結果を得てゐる。(24)の背景のウルトラにネプルスの調和は美しい。「幸福に向つて」の連作八点の抽象的表現。(12)(15)(16)(17)を好む。兎も角もこの蒼白なる発光体の光度の益々強まらんことを希望する。



初出:『みづゑ』255号(1926年5月)pp.25-27
底本:古賀春江文集『写実と空想』(中央公論美術出版)p.243-247
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  1. 2013/12/27(金) 02:36:15|
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